第6章 拓と瞳、光莉の章 第3話【父として】(拓視点)
光莉が七歳になった。小学校に上がり、友達も増えた。
ある日、学校から帰ってきた光莉が、尋ねた。
「パパ、パンストって何?」
拓の手が止まった。
(——かつて、自分が依存していたもの。誰にも言えない性癖を隠すための仮面であり、同時に誰かに見られたいという歪んだ自己顕示の象徴。あの裏アカウントに投稿した写真。短い文章。誰かの「いいね」で自分を確認していた、あの頃の自分)
(それが、今、娘の口から——)
「……どうしたの?」
「友達が言ってたの。『拓のパパ、パンストが好きなんだって』って」
拓の心臓が、激しく打った。
(誰かが、光莉に——)
(あの頃の俺のことが、今ここで——)
「パパ?」
光莉の声で、我に返る。
「ああ、それはね——」
何と言えばいいのか、わからなかった。パンストフェチだと? 裏アカウントがあったと? それを、七歳の娘にどう説明すればいいのか。
(それだけじゃない。母さんとの不倫も。純に書かれたことも。晒されたことも。会社を辞めたことも——)
(全部、いつか話さなければならない。でも、今じゃない。今は——)
あの頃の自分は、見られることで自分の存在を確認していた。誰にも言えない性癖を抱え、それを吐き出す場所として、裏アカウントを使っていた。
でも、それは深い哲学的孤独からではなかった。もっと単純で、もっと歪んだ——自分を確かめたかっただけだ。誰かに「見られる」ことで、自分がここにいると確認したかった。ただそれだけのことだ。
でも、それを七歳の子供にどう説明すればいい?
「パパはね、そういうのがね————」
言いかけて、止まった。
瞳が、リビングの入り口に立っていた。その顔は、青ざめている。
「光莉、ご飯にしようか」
瞳が、光莉の手を引いてキッチンへ連れて行く。拓は、その背中を見つめたまま、動けなかった。
その夜、瞳が言った。
「いつか、話さなければならないね」
「……ああ」
「でも、今じゃない。光莉が、もっと大きくなってから」
拓はうなずいた。それしかできなかった。
(あの頃の俺は、何を求めていたんだろう)
(誰かに見られること? それとも——自分を確かめたかっただけなのか?)
(でも、今は違う。今の俺は、見られることを恐れない。でも、それ以上に——見られることを求めてもいない)
(あれは、もう過去の自分だ。でも、その過去は、俺の一部でもある)
(それだけじゃない。これまでのこと——全部、俺の過去だ。光莉に伝えなければならないことが、山ほどある)
(でも、何から話せばいいのか。どう話せばいいのか)
(全部話したら、光莉はどう思うだろう。俺を嫌うだろうか。それとも——)
その夜、拓は久しぶりに、自分のことを書いた。誰かに見せるためじゃない。ただ、自分の中にあるものを、形にするために。
「光莉へ。いつか、君が大人になった時、読んでほしい。パパはね——」
書いては消し、書いては消した。何を書けばいいのか、わからなかった。
(パンストフェチのことだけじゃない。——全部、書かなければならない)
(でも、それをどうやって——)
(あの頃の自分は、見られることで自分を確認していた。でも、それは間違っていたとは思わない。ただ——それだけでは足りなかったんだ)
(今ならわかる。見られることと、見つめること。その両方がないと、人は確かにここにいられない)
(光莉が生まれて、初めてわかった。俺は、見られるだけでは足りなかった。誰かを見つめることも、必要なんだ)
(でも、それを言葉にするのは、まだ難しい)
結局、その夜は何も書けずに、ペンを置いた。
(伝えたいことは山ほどある。でも、言葉にできない)
(それが、俺の業なのかもしれない)
窓の外で、月が静かに浮かんでいた。
かつて、自分が裏アカウントに投稿した写真にも、同じような月が写っていたことがある。誰かに見られることを願って、シャッターを押したあの頃。
今、その月はただそこにある。見られるためではなく、ただそこにある。
(それでいい。それで、いいんだ)
(いつか、光莉に全部話す日が来る。その日まで、俺はこのままでいい)
拓は、そっとカーテンを閉めた。
小学五年生の秋。
クラスで飼っていたウサギが死んだ。
先生は「病気だったんだね」と言ったらしい。他の子たちは「かわいそう」と言って、すぐに別の話題に移った。でも、光莉は違った。
光莉は、自分で調べ始めた。図書館で本を借り、獣医に聞きに行き、家に帰ってからもインターネットで調べている。
瞳が言った。「もう終わったことなんだから、そんなに調べなくてもいいじゃない」
でも、光莉はやめなかった。拓は、何も言わなかった。言う必要がないと思った。光莉は、自分で答えを出す。それでいい。
一週間後、光莉が言った。
「うっ血性心不全だった。早期発見が難しくて、気づいた時には手遅れだったんだって。何をしても助からなかったかもしれない」
「そうか」
「お父さんは、私が調べるの、どう思う?」
拓は少し考えてから言った。
「光莉は、わかるまで考えるんだな」
「うん。わからないままにするのが、嫌なの」
拓は少し笑った。
「そうか。」
それだけだった。でも、その短い言葉に、光莉は認められたような気がした。
(この子は、私とは違う)
(私は「わからないまま」を選んだ。でも、この子は「わかるまで考える」を選ぶ)
(それが、この子の核になるのだろうか)
窓の外で、月が静かに浮かんでいた。かつて、自分が裏アカウントに投稿した写真にも、同じような月が写っていたことがある。誰かに見られることを願って、シャッターを押したあの頃。
今、その月はただそこにある。光莉の「知りたい」という光を、静かに見守っている。




