第6章 拓と瞳、光莉の章 第2話【母として】(瞳視点)
光莉が三歳になった。
少し前までは、ただ泣いて、乳を吸って、眠るだけの小さな塊だった。それがいつの間にか、瞳と拓の間に立って、二人の手を器用に繋ぎ、自分の足でしっかりと地を蹴って歩くようになった。
今年の春から保育園に通い始め、彼女の世界は家庭の外へと急速に広がりつつある。
毎日、ちぎり絵の施された画用紙や、新しく覚えたごっこ遊びの歌、泥のついた靴下など、無数の「新しいこと」を小さな両手に溢れんばかりに抱えて帰ってきた。
そのたびに、瞳は愛おしさと同時に、胸が痛いほどに詰まる思いだった。
(この子は、私とは違う)
夕暮れのキッチンで、無邪気にプラスチックのコップを並べている光莉の小さな背中を見つめながら、いつも心の中でそう呟いていた。
(私が、母から「あなたは特別なのよ」と言われて育ったように、この子には何と言えばいいのだろう)
瞳の母は、私を自分の作品か何かのように扱い、常に「特別」であることを強いた。その結果、瞳は歪んだ。
あの頃の瞳が抱えていたもののすべて──母の過剰な期待、それに応えられない自分の醜い感情、自分より先に進んでいく純への激しい嫉妬、そして世界に対する底知れない疑念。
そんな黒く淀んだ泥のようなものを、何一つとして、この子の細い背中に背負わせたくはなかった。この子には、ただ普通に、透明な光の中を歩いてほしかった。
ある日、保育園からの帰り道、小さな手を繋いで夕日の沈む坂道を歩いていたとき、光莉が不意に顔を見上げて尋ねた。
「お母さん、どうしてパパと結婚したの?」
小さな歩幅に合わせながら、少し息を呑み、言葉に迷った。三歳の純粋な瞳が、瞳の顔をじっと見つめている。過去のあらゆる記憶が、脳裏を数秒で駆け抜けていった。
「……好きだったからよ」
一番無害で、一番綺麗な言葉を選んで差し出した。
「ふうん」
光莉はそれ以上深く追及することなく、満足したように小さく頷いた。それだけだった。三歳の子供にとっては、大好きなパパとママが「好きで一緒にいる」という事実だけで、世界を信頼するのに十分すぎる理由だった。
でも、その夜、光莉を寝かしつけた後も、頭からあの幼い問いが離れなかった。暗い寝室で、天井を見つめながら自問を繰り返す。
(好きだったから──本当に、それでいいのか? それだけだったのか?)
あの頃の瞳は、確かに拓を愛していた。それは嘘ではない。でも、二人の始まりは、そんな綺麗な一色だけで塗り潰せるものではなかった。
康介に対して重ねてしまった裏切りと、今も消えない深い罪悪感。瞳を追い詰めていった純への盲目的な嫉妬。満たされない承認欲求の果てに溺れていった、自分の中の醜い感情。そのすべてが、ドロドロに混ざり合って、あの泥泥とした選択へと繋がっていたのだ。
(それを、光莉にいつか話さなければならない時が来るのだろうか)
今はまだ、この薄暗い布団の中で守られている小さな命。けれど彼女が成長したとき、どう話せばいいのだろう。
瞳が疑念を持ちながら受け入れた拓の裏アカウントのこと。拓との不倫のこと。純にすべてを暴かれ、小説として書かれたこと。インターネットの海に実名を晒され、逃げるように会社を辞めたこと。二人の人生の土台にある、あの消えない汚点のすべてを──。
布団の中で、瞳は寝返りを打ち、光莉の寝顔をそっと覗き込んだ。すやすやと、規則正しい確かな寝息を立てて、彼女は無邪気に眠っている。その頬は柔らかく、まだ世界の悪意を何も知らない。
(この子には、知らなくていいこともある)
強くそう思った。過去の罪は親のものであり、子供には一切の関係がない。彼女の未来を、二人の過去で汚してはならない。
そう思っていた。でも──。
(それが、ただの自己保身なのではないか)
闇の中で、もう一人の自分が冷酷に囁く。
瞳が過去を隠し、光莉に話さないのは、本当に光莉の未来を守るためなのだろうか。それとも、娘に嫌われたくないという、自身の「自分が楽になりたいだけ」の身勝手な言い訳なのではないか。
どれだけ考えても、答えは出なかった。胸の奥につかえた重い塊は、消えてくれない。
夜の静寂の中、ただ光莉の小さく優しい寝息だけが、瞳の迷いを置き去りにするように、静かに、途切れることなく聞こえていた。




