第6章 拓と瞳、光莉の章 第4話【十四歳】(光莉視点)
光莉は十四歳になった。
世界は、自分が思っていたよりもずっと多くの「空白」と「隠し事」で満ちている。そんな不穏な予感が、なんとなく肌に張り付き始めた、そんな年齢だった。
ある日の放課後、地域の古い図書館の、薄暗い文芸書棚の片隅で、彼女は一冊の本を手に取った。
背表紙に刻まれた文字は『彼女の計画』。そして著者の欄には、ただ一文字「純」とだけ書かれていた。
その剥き出しのタイトルに、なぜか強く心が引かれた。磁石に引き寄せられるように手を伸ばし、ページをめくる。指先から古い紙の匂いと、冷たい緊張感が伝わってきた。数ページを斜め読みしたところで、光莉の指がピタリと止まる。
(これって──)
喉の奥が、妙に熱くなった。
作中に登場する男女。彼らの交わす言葉の癖、生活の匂い、すれ違いの温度。それはどう見ても、自分の家でいつも見ている、父と母の姿によく似ていた。
いや、似ているというレベルではない。まるで彼らの人生をそのまま、残酷なまでに鮮やかな文字の檻に閉じ込めたかのような生々しさがあった。
でも、これはあくまで「小説」だ。表紙にはっきりとそう印刷されている。
そして作者は、自分の知らない「純」という名前の人物。
(お父さんとお母さんのこと、書いたんだ)
胸のチャックが少し開いたような、奇妙な心細さが襲ってきた。
(でも、どうして書けたんだろう。本人たちにちゃんと話を聞いて書いたのかな。それとも、二人に内緒で、勝手に書いたのかな)
もし、後者だとしたら。光莉の胸に、冷たいざらつきが広がる。
(もし勝手に書いたのだとしたら、それは──お父さんたちをひどく傷つけることにならないのかな)
その本を借りる勇気は出ず、棚の奥に戻した。けれど、網膜に焼き付いた文字は消えてくれなかった。
その夜、夕食の片付けをしている瞳の背中に向かって、光莉はできるだけ何でもない風を装って尋ねた。
「お母さん、『彼女の計画』って知ってる?」
ガタッと、小さく鋭い音が響いた。瞳が手に持っていた皿が、シンクの縁に当たった音だった。
振り返った瞳の顔色は、一瞬で、血の気が引いたように白くなっていた。
「……どこで、それを?」
瞳の声は低く、かすかに震えていた。いままで見たこともないほどに強張った表情で自分を見つめている。
「図書館で。お父さんとお母さんのこと、書いてあるの?」
光莉が真っ直ぐに問い返すと、キッチンには時計の針の音だけが不自然に響く、長い、重苦しい沈黙が訪れた。
瞳はきつく唇を結び、やがて視線を落として、絞り出すように言った。
「光莉、あなたには──まだ、話せない」
「どうして?」
「あなたが、もっと大きくなったら。その時は、ちゃんと全部話すから」
瞳の目は、拒絶ではなく、懇願しているようだった。
光莉は、それ以上は何も聞かなかった。ここで追及すれば、目の前の母が壊れてしまうかもしれないと思ったからだ。でも、彼女の心の中には、どうしても消えないトゲのような違和感が、確かに残り続けた。
その夜、光莉は自分の机に向かい、誰にも見せないノートを開いてペンを走らせた。
「お母さんは、何かを隠している。お父さんも。二人とも、私に言えない決定的なことがある。」
「でも、いつか知る日が来る。その時、私はどう思うのだろう。」
「わからない。でも、わからないままにするのは嫌だ。わかるまで考えたい。それが、私のやり方だ。」
書くことで、乱れた呼吸を整える。
窓の外から差し込む鋭い月明かりが、ノートの上に並んだ青いインクの文字を、静かに、そして冷たく照らし出していた。
中学二年生の秋。
季節が変わり、世界の輪郭がまた少し冷たさを増した頃だった。
午後の移動教室の最中、騒がしい廊下を一人で歩いているとき、角の向こうから不意に知っている名前が聞こえてきた。数人の男子生徒の声だった。
「光莉の親、不倫してたらしいぜ」
「え、マジで? あの真面目そうなやつ?」
「しかも、それ、小説になってんだって。『彼女の計画』ってやつ。結構有名らしい」
ドッと、下俗な笑い声が起こった。
角を曲がると、数人の男子がこちらを見て、あからさまにニヤニヤしながら目を逸らした。
光莉の全身の血が、一瞬で凍りついたようだった。耳の奥で、心臓がうるさいほどに脈打つ。
彼女は何も言い返せず、ただその場から逃げるように走り去った。
放課後、家に帰っても、誰にもそのことを言えなかった。優しく微笑む瞳の顔を見ても、書斎で静かにパソコンに向かう拓の背中を見ても、喉まで出かかった言葉は固まって動かない。
(もし、二人に聞いてしまったら──)
もし聞いて、あの男子たちの言葉が本当だと証明されてしまったら、この静かで穏やかな我が家が、音を立てて木っ端微塵に壊れてしまう気がした。それが怖かった。
その夜、布団を頭から被り、暗闇の中で光莉はただずっと考え続けた。
(お父さんとお母さんは、一体、何を隠しているのか)
(あの、図書館で見つけた小説は、本当のことなのか)
(もし、すべてが本当なら──私は、どうすればいい?)
翌日、光莉は体調不良を理由に、学校を休んだ。
家を出て向かったのは、あの図書館だった。人気のない午前中の館内。制服を着ていない自分を隠すようにして、もう一度『彼女の計画』を棚から抜き出し、貪るようにページをめくった。
今度は、ただの物語としてではなく、そこに隠された「真実のコード」を読み解くように、一文字一文字を凝視する。
けれど、読めば読むほど、思考は迷路に迷い込んでいった。これは精巧に作られた小説だ。でも、ディテールの端々に、本当のこととしか思えない痛みが宿っている。他人が勝手に書けるはずのない、歪んだ熱がそこにはあった。
ぐるぐると回る思考の果てに、光莉はベッドの中で、一つの決断を下した。
(いつか、この人に会って、聞いてみたい)
この本を書いた、「純」という人間に。親の口から語られる主観ではなく、彼らの人生を外側から固定した、その張本人に、直接話を聞いてみたい。
その夜、彼女は再びノートを開いた。昨日までの迷いを振り払うように、ペンの筆圧は強かった。
「今日、学校で嫌なことを聞いた。お父さんとお母さんのこと。でも、それが本当かどうかは、今の私にはわからない。わからないから、私は確かめたい。いつか、純さんに会って、直接聞いてみたい。それが、私のやり方。」
窓の外では、あの夜と同じ月が、何も言わずに静かに浮かんでいた。
その冷たくて白い光だけが、光莉の決意を受け止めるように、ノートの文字を真っ直ぐに照らし出していた。




