第5章 純の章 後半第6話【おかえり】
母の死。拓への誤解とその赦し。それらの積み重ねが、私の中の何かを変えた。
刃はまだある。書くことはやめられない。でも、それを誰かに向けることが、唯一の私ではなくなった。
沙織がなぜ私から距離を置いたのか。今ならわかる。彼女は私の「ひとりよがり」を見抜いていた。自分だけが特別に「見ている」と思い込む、あの歪んだ姿勢。そこに正義を感じられなかったから、彼女は加担できなかった。それだけのことだ。
私は沙織のことを悪く思ったことは一度もない。彼女が距離を置くのは当然だった。逃げていい。逃げなければならない時がある。それを、母の死を通じて痛感した。
だから、沙織から連絡がきたときは会いに行こうと思った。何も言わずに。「おかえり」と言ってあげよう。それだけを胸に、公園へ向かった。
数日後、小雨が降っていた。
公園のベンチに、沙織は座っていた。傘はさしていない。スケッチブックを開き、鉛筆を走らせている。
私は近づき、傘を彼女の上にかざした。
沙織が顔を上げる。
その目には、涙が溜まっていた。雨のせいではない。
私は何も言わなかった。言う必要がなかった。
ただ、傘を彼女のほうに傾け、少しだけ口元を緩めた。
それが、私なりの「おかえり」だった。
ベンチの横に座り、しばらく無言で雨の公園を眺めた。
濡れた砂場。
遊具の陰から顔を出す子どもたち。
遠くで母親が声をかけている。
何の変哲もない日常の断片。
それを、沙織と並んで見ている。
それだけで、何年もの月日が、少しずつ埋まっていく気がした。
小雨が上がる頃、私たちはようやく、ほんの少しだけ言葉を交わした。中身は何でもなかった。ただ、ああ、そういうことかと、お互いに思えるような、ささやかなやりとり。それでも、その何でもない時間が、確かに私たちの空白を縫い合わせていた。
スケッチブックを閉じる音がして、沙織が立ち上がる。かすかに残る雨の匂い。濡れたアスファルトに反射する光。私はその後ろ姿を見送りながら、そっと胸の内で繰り返す。
——おかえり。
それが、私の精一杯だった。




