第5章 純の章 後半第5話【変わらないもの——そして書くこと】
光莉が去った後、私はアトリエに一人残った。
机の上には、新しい原稿用紙が広がっている。次の作品の構想だ。テーマはまだ決まっていない。でも、書くことは決めている。
(私は、これからも書く)
(たとえ、誰かを傷つけても)
(たとえ、また誤解しても)
(書かずにいられないから。それが、私の業だから)
母は私を見ていた。拓も私を見ていた。沙織もまた、そうだった。私だけが特別な観察者ではなかった。それは、ある意味で屈辱だった。でも、それ以上に——解放でもあった。
(観察者は、いつか創作者になる)
(そして、創作者は、誤解と真実の間で、永遠に揺れ続ける)
(それが、私の選んだ道だ)
ペンを握る。その感触は、幼い頃から変わらない。
変わらない——そう、私の核は何も変わっていない。ただ、「見る」ことから「書く」ことへ、その表現の形が変わっただけだ。
私は、あの頃と変わらない。アリの行列を眺めていたあの日から、ずっと。見ることに没入し、それを言葉にすることで、自分を保ってきた。ただ、それが今は「小説」という形になっただけ。
私の核は、研がれただけで、折れてはいない。
それが、私にとっての救いだった。
今日も、私は机に向かう。新しい原稿用紙を広げる。何を書くかは、まだ決まっていない。でも、それでいい。書くことが決まっているのではなく、書くこと自体が私の在り方だから。
窓の外では、誰かが通り過ぎる気配がする。その誰かを見ようとは思わない。もう、観察者ではない。私は創作者だ。見たものを書くのではなく、私の中から湧き出るものを書く。
あれから、さらに年月が経った。
私は、今も書いている。拓と瞳のことは、もう書かない。でも、彼らは今も、私の作品のどこかにいる気がする。彼らの「核」が、私の作品の奥底で、静かに光っている。
(あの日、カフェで初めて拓さんを見た時、私は「この人には核がある」と思った。その直感は、間違っていなかった)
(でも、その核に触れることは、最後までできなかった)
(それが、私の物語だ)
ペンを置く。完成した原稿を、もう一度読み返す。最後の一行が、目に留まる。
『観察者は、いつか創作者になる。そして、創作者は、誤解と真実の間で、永遠に揺れ続ける。』
ゆっくりとペンを置く。
(これでいい。これが、私の答えだ)
窓の外では、今日も誰かが誰かを見ている。その視線の先に、また別の誰かがいる。その誰かもまた、別の誰かを見ている。
視線の連鎖は、どこまでも続く。
でも、今この瞬間——
私は、ただ書いている。
それだけで、十分だった。




