第5章 純の章 後半第3話【誤解——そして道場】
母の死と、その後の遺品整理。
あの体験が、私の根底を変えた。「私だけが見ている」という思い上がり。それが崩れたことで、世界が少しだけ違って見えた。同時に、私はようやく「見られること」の重さを知った。それは決して傷つくことだけではない。誰かに見られているからこそ、自分はここにいられる。その感覚を、私は母から教わった。
ある日、ふと拓の裏アカウントを開いた。何年ぶりだろう。
新しい投稿はなかった。でも、過去の投稿がまだそこにある。パンストの写真。短い詩のような文章。誰にも言えない日常の断片。
(この人、変わってないな)
そう思った瞬間、違和感が走った。
(私はずっと、この人を「孤独」だと思っていた。誰にも言えない秘密を抱え、それを吐き出す場所として、このアカウントを使っていると)
(でも——違う。この人は、ただ書くことが好きなだけだ。学生時代から続けている、それだけのこと。深い意味なんてない。書かずにいられないから書いている。それだけだ)
(彼は孤独じゃなかった。私が孤独だった。私の孤独を、彼に投影していただけだ)
その時、胃の腑がひっくり返るような感覚に襲われた。私は——彼を書くために、「孤独」という檻に閉じ込めていた。もし彼が孤独でなかったら、私は彼を観察する理由を失う。彼を書く大義名分を失う。だから、無意識のうちに、彼を孤独だと思い込んでいた。
(私は、彼のことを何も知らなかった。知ろうとしなかった。知ってしまったら、書けなくなるから)
それが、私の「業」だった。
誤解だった。でも——
(その誤解が、私を動かした。もしあの時、彼を孤独と誤解していなかったら、私はあんなに長く見続けなかった。彼のことを書かなかった。あの誤解が、私を創作者にした)
その瞬間、もう一つ気づいた。
なぜ、私の刃は拓に刺さらなかったのか。
彼は、私を見ていた。私が彼を観察している間、彼もまた私を観察していた。私の刃がいつ、どこから、どの速さで来るか、見切っていたから、受け流せた。
(「私だけが観察している」——それは思い上がりだった)
彼は、誰に対してもそうなのだろう。相手をじっと見て、その人の核に不用意に触れないように距離を取りながら、それでも逃げずに、そこにいる。それが、彼の「核」だった。
そして、その「核」は、私の刃を無効化するどころか、逆に研いでいた。彼に刃を向ければ向けるほど、私は自分自身の刃の形を知った。
(彼は、私の「道場」だった)
武道でいう師範のようなものだ。言葉で教えたわけではない。ただ、そこにいるだけで、私に「これが核というものだ」と示し続けた。だから、私は安心して刃を試せた。誰も傷つけずに、自分の刃を確かめられた。
もし彼に刃が刺さっていたら、私はもう彼を必要としなかっただろう。刺さらなかったからこそ、私は追い続けた。刺さらなかったからこそ、刃は研がれた。
私は、彼に感謝してもいいかもしれない。でも、それを伝えることはない。伝える必要もない。彼は、そのこと自体を望んでいないから。
誤解と真実——その間で、私はこれからも生きていく。
それでいい。




