第5章 純の章 後半第1話【カフェの対決】
後編『創作者』——あるいは、刃と共に生きる
プロローグ「刃の先に」
小説が炎上してから、どれだけ経っただろう。
沙織から電話がかかってきた。
「純ちゃん、読んだよ」
声が、いつもより硬い。
「……うん」
「すごいね。でも——私、しばらく距離を置こうと思う」
心臓が止まった。
「私も、加害者になるのが怖いんだ。あの同人誌で、私はあなたの刃に色を塗った。それで十分だ。これ以上、あなたの刃に加担することはできない」
何も言えなかった。
「ごめん、純ちゃん」
電話が切れた。
スマホを握りしめたまま、しばらく動けなかった。
(沙織に、見放された)
(いや、違う。沙織は、自分のために距離を置いた。それは、彼女の選択だ)
(でも——)
(私は、また誰かを傷つけた。今度は、一番近くにいた人を)
その夜、眠れなかった。
第1話「カフェの対決」
カフェ「あおい」の窓際の席に、拓と瞳が並んで座っている。純は向かいに座り、コーヒーカップを両手で包んだ。二年ぶりだ。拓の白髪が少し増えた。瞳の目の下には、眠れぬ夜を物語る隈がある。
(彼らは、私を問い詰めるつもりだ。でも——)
純は、コーヒーカップの表面に映る自分の指紋を見つめた。
(私は、問い詰められるためにここに来たわけじゃない。見るために来たんだ。彼らが、どう反応するのか——)
拓が口を開いた。
「『彼女の計画』、読んだ」
純はうなずいた。声は出さなかった。出さなくていいと思った。今は、見ることに集中する。
拓の表情。怒りと、悲しみと、その間を揺れる何か。瞳の表情。拓とは違う。彼女の怒りは、自分自身に向かっているように見えた。それに気づいた時、純の中で何かが動いた。
(彼女は、私を責めているようでいて、自分を責めている。私が書いたことを、自分が引き起こしたことだと——)
瞳が言う。「なぜ? 私たちのことを、勝手に晒すなんて……」
純は答えた。「私だけのものにしたくなかったからです」
それは本心だった。でも、それだけじゃない。彼らがどう反応するか、見たかった。自分の「刃」が、彼らにどう刺さるのか——。
拓の声が低く響く。「純、君は『書かずにいられない』と言う。でも、その言葉の裏に、『書くことで自分を特別だと思いたい』という欲を見ているんじゃないか?」
純の胸に、何かが刺さった。拓の言葉は、彼女の最も深いところを突いていた。
(そうだ。私——自分を特別だと思いたかった。観察者でいることに、優越感を感じていた。でも——)
「お前の文章には、確かに力がある。でも、その力は、誰かを傷つける刃にもなる。君は、その刃を振り回す自分に酔ってないか?」
純は、拓の目を見た。彼は、純の「刃」を見抜いていた。でも——彼の目は、刃を受け止めていない。刃は、彼の核に触れる前に、別の方向へ逸れていく。それは、武道でいう「受け」だった。彼は、私の刃を受け流している。
(傷つかない。傷つかないから、私も彼を傷つけられない。それが、こんなにも歯痒い——)
(愛している? 違う。愛する相手に、こんなに刃を向けたいとは思わない。これは——)
(「この人に刺さらない刃」を研ぎ続けることが、私の生きる意味になっている。それは、依存。でも、それでいい)
(この人は、私の「刃」が刺さらない。私の何かが、彼には通じない)
そのことに、純は初めて気づいた。同時に、その事実が、彼女の中で悦びと屈辱が混ざり合った、奇妙な熱を生んでいた。
(彼の核は、私の刃を削る。削られて、私はまた研ぐ。その繰り返しが、私を「私」にしている)
(もし彼に刃が刺さっていたら——私はもう、彼を必要としていなかった)
(ああ——そうか。だから私は、彼を追い続けたんだ。5年間。刺さらないから、追い続けた。刺さらないから、書かずにいられなかった)
瞳が言う。「純、あなたは、私たちを傷つけることで、何を得たいの?」
その問いに、純は答えた。
「……自分が、ここにいるって証が欲しかったのかもしれない」
その瞬間、瞳の表情が変わった。怒りから、何か別のものへ。純は、それを見逃さなかった。
(彼女は——私と同じだ。自分の存在を確認したくて、誰かを傷つけた。私が「書く」ことでやったように、彼女は「誘導」することで——)
拓が言った。「俺たちは、君にとって、ただの通過点だったのか?」
純は声を張り上げた。
「違います!」
その声は、自分でも驚くほど大きかった。
「ずっと、ずっと、心の中にありました。忘れた日は一日もない。でも——」
(でも、それを伝える方法が、書くことしかなかった。それが、私の刃だった)
瞳が、静かに言った。「出版を、止めてくれない?」
純は首を振った。その時、彼女はもう一つのことに気づいていた。
(彼女——この人も、私と同じだ。何かを「形」にしないと、自分が消えてしまう。私は「書く」ことで、彼女は「書く」ことで——)
「止められない。私の一部になっている」
瞳の目が、変わった。そこには、怒りでも悲しみでもない、もっと別の——純と同じものが、光っていた。
「純に書かれるくらいなら、私が書く。自分の言葉で、自分の人生を」
純は、息を飲んだ。
(彼女も——やっぱり、私と同じだった。私の「刃」は、彼女にも刺さらなかった。刺さらなかったから、彼女は——)
「あなたのフィルターを通した『瞳』じゃ嫌。醜い感情も、嫉妬も、全部を自分の言葉で曝け出す」
純は、初めて拓と瞳の「共犯関係」を見た気がした。二人の間に流れる、言葉にならない何か。それは、純がずっと追い求めてきたものだった。
(彼らは——私が書いたものなんかよりも、ずっと深いところで繋がっていた)
拓が言った。「俺も、書く。三人で、この物語を完成させよう」
純は、その言葉を聞いて、喉の奥がちりちりと焼けるような感覚を覚えた。
(私は彼らを解剖し、標本にするつもりでここに来た。なのに——)
彼らは、純が差し向けた「刃」を奪い取り、自分たちの武器として構え直している。瞳の目にも、拓の佇まいにも、もう純の言葉に脅かされる怯えはなかった。表現というリングに、二人は自らの足で立とうとしている。
(彼らは——私が書いたものなんかよりも、ずっと深いところで繋がっていた)
その事実は、純にとって強烈な屈辱であり、同時に、五年間で初めて味わう、身震いするほどの創作の悦びだった。
純に彼らの申し出を拒む理由はなかった。
その夜、純は一人、自室の机で日記を開いた。
ペンを握る指先が、まだ微かに震えている。
昼間のカフェで、拓が自分の刃を受け流したあの滑らかな軌道を思い出す。瞳が「醜い感情も全部曝け出す」と言った時の、あの狂気に満ちた美しい瞳を思い出す。
純はインクを走らせた。
「今日、彼らに会った。私の刃は、彼らの核には一本も刺さらなかった。」
「でも、それでよかったのだ。もしあの時、二人が私の言葉に傷つき、壊れてしまっていたら、私の表現はそこで死んでいた。消費し尽くせない他者だからこそ、私は五年間、彼らを書き続けるしかなかった。」
「私の刃は、二人を傷つけた。けれど傷口から流れた血は、彼ら自身の言葉を呼び覚ます呼び水になった。彼らは私に書かれる客体であることをやめ、自らを発信する主体になったのだ。」
「これは、私の『計画』の終わりではない。三人の表現者が、互いの刃を研ぎ合うための、果てしない戦いの始まりだ。」
ペンを置く。窓の外には、冷たく均一な夜景が広がっている。
沙織は去った。けれど、自分の手にはまだ、研ぎ澄まされた一本の刃が握られている。
純は、そっと日記を閉じた。その表紙に触れる指先は、静かに熱かった。




