第5章 純の章 前半第6話【刃を外に向ける——書くこと、そして傷つけること】
そして、私は書いた。
『彼女の計画』。
指が止まらない。止めたくない。書くたびに、内側に押し込めていた刃が、外に向かって伸びていく感覚。今まで自分の中に閉じ込めていたものが、一文字ごとに形を得て、画面の上に現れていく。
それが、恐ろしく、そして——たまらなく気持ちよかった。
(これが、私の刃だ)
(長い間、研ぎ続けてきた刃だ)
誰かを傷つける。でも、傷つけずにはいられない。それが、観察者でありながら創作者になろうとする者の宿命だと、その時初めてはっきりと理解した。
書くことで、私は初めて「見ているだけ」の自分から抜け出した。観察者から創作者へ。その一歩を、今、踏み出した。
(私は、拓という鏡に映る自分を見つけた。そして、刺さらない悦びと屈辱を知った。そして今——私は、その全てを言葉にする。)
最後の行を打ち終えた時、指が震えていた。キーボードから手が離せない。画面に表示された文字が、じわじわと滲んで見える。
(書いた。ついに、書いた)
(これで、私は「観察者」ではなくなる。「創作者」になる)
(でも——)
(これで、誰かを傷つける)
その予感が、胸の奥で冷たく光っていた。
でも、止められなかった。書かずにいられなかった。それが、自分の業だと、その時初めてはっきりと理解した。
これは、私の「計画」の実行だった。いや——「計画」とは、書くことそのものを指すのではなく、書かずにいられない自分を認めることだったのかもしれない。
投稿ボタンを押す。
画面が切り替わる。小説が、ネットの海に放たれた。
私は、しばらく動けなかった。
小説は、予想以上に広がった。
いいね、リツイート、コメント——数字が跳ねるたびに、心臓が高鳴った。
(読まれている。私の書いたものが、誰かに届いている)
五年間、拓の裏アカウントを追い続けた日々。あの非常階段で見た背中たち。それらが全て、今、誰かの目に触れている。その事実が、私を高揚させると同時に、足元から崩れ落ちそうな不安も運んできた。
でも、それだけではなかった。
コメント欄には、賛辞とともに、批判も書き込まれ始めた。
「これは実話なのか?」
「モデルがいるのでは?」
「プライバシーの侵害だ」
読めば読むほど、胸が締め付けられた。でも、目が離せなかった。スクロールする指が止まらない。罵倒の言葉が、私の刃を返すように突き刺さる。
あるコメントが、特に心に刺さった。
「この作者、誰かを愛してるんだね。でも、その愛し方が少し歪んでる。だからこそ、こんなにリアルなんだと思う」
(愛している? 拓を? 違う。私はただ——見ていただけだ。彼という鏡に映る自分を見ていただけだ)
でも、そのコメントは消えなかった。頭の中で何度も繰り返される。愛している——違う——でも、なぜこんなにも彼のことを考え続けてきたのか。なぜ、五年間も。
そして、事態は加速した。
「この小説のモデル、特定した」
「あの会社の不倫上司だって」
「非常階段、見たことある」
私の指が、震えた。
(違う。私は、ただ書いただけだ。モデルにしたつもりは——)
いや、違う。モデルにした。拓と瞳を。康介も。Eも。
(私は、彼らを傷つけると知りながら、書いた)
その事実が、重くのしかかった。
(それでも——書かずにいられなかった。それが、私の業だ。)
机の上のノートを開く。日記の最後のページに、震える字で書き加えた。
「私は、刃を出した。外に向けて。それは、誰かを切るかもしれない。でも、もう戻れない。戻りたくない。」
「観察者であり続けることは、安全だった。でも、何も残らなかった。傷つくことを恐れて、何も生み出せなかった。」
「今、私は傷つける。それでも——それが、私が選んだ道だ。」
ペンが止まる。窓の外を見る。都会の夜景が広がっている。その光のどこかに、拓がいる。瞳がいる。康介がいる。Eがいる。
(彼らは、私のことを知らない。でも、私は彼らのことを書いた。)
(それが、私の「実行」だった。計画を——いや、計画に気づくことと、実行することの間には、五年もの歳月があった。そして今——ようやく、私は動き出した。)




