第5章 純の章 前半第5話【観察の果てに】
五年間の観察の中で、私は拓と瞳の関係を知った。
非常階段で抱き合う二人。それを見つめるもう一人の「観察者」——E。康介の沈黙。瞳の日記。
私はそれらの「観測者」だった。見ているだけ。それが私の役割であり、安全地帯だった。
でも——違う。私はただ見ていただけではない。見ることで、自分の存在を確認していた。彼らが動くたび、私の中で何かが震えた。それが「生きている」という感触だった。
ある夜、日記に書いた。
「今日、彼に『書くこと』の話をした。彼も昔、脚本の物書きをしていたらしい。私たちは、同じ穴の狢なのかもしれない。でも、彼はそれを隠している。私は、それを曝け出している。その違いが、今は愛おしい。」
「彼が『書かずにいられない』人だと知って、少しだけ安心した。でも、それ以上に——」
ペンが止まる。純は、自分の鼓動が速くなっているのに気づいた。
(この人には、私の刃が刺さらない。彼の何かによって、通じない。それは——)
「彼と対峙するたびに、私の中で何かが削られていく。鋭利な刃で岩を削っているような感覚。刃はすぐに鈍る。研ぎ直す。また削る。また鈍る。」
「この人は、私を消耗させる。でも——それでいい。消耗している間だけ、私は『生きている』と感じる。」
(刺さらない。刺さらないからこそ、私は彼を追い続けている。もし刺さっていたら、そこで終わっていた。観察は続かなかった。書くことも、なかったかもしれない)
そう書いた後、純は自分の矛盾に気づく。
(私は彼の孤独を「特別なもの」だと思い込んでいた。でも、違う。本当は——私の孤独を、彼に投影していただけだ。誰にも理解されないと思っていたこの感情を、彼なら理解してくれるかもしれない。その淡い期待が、五年間も私を動かしていた。期待されていると気づかないふりをしながら、彼の裏アカウントを開き続けていた。)
彼女はペンを握り直す。
「彼の裏アカウントは、最初に思ったような『深い孤独の吐露』ではなかった。もっと単純で、もっと軽い——習慣に近いものだった。でも、それでよかった。もし彼が本当に深い孤独を抱えていたら、私は彼を『観察』できなかった。共鳴しすぎて、距離を保てなかった。」
(つまり——私は彼の「軽さ」に救われていた。彼が思っていたよりずっと普通の人間だったから、私は客観的に見続けられた。共感ではなく、観察として。)
「これは、観察なのか。それとも、別の何かなのか」
答えは出なかった。
でも、一つだけ確かなことがあった。刺さらない——それが、私の悦びであり、屈辱だった。五年間、彼のアカウントをスクロールするたび、その感覚を確かめていた。私は彼を理解していない。彼も私を理解していない。でも、その「理解し合えない距離」だけが、私をここに留めていた。
ある夜、ふと思った。
(彼の核に触れられないのなら——せめて、その周辺を言葉にしたい。触れられないこと自体を、物語にしたい。)
それが、「書く」という行為への、最初の一歩だった。




