第5章 純の章 前半第3話【鞘(さや)の中の研磨】
高校一年の夏。
屋上から、校庭の生徒たちを観察するのが日課だった。
ある日、後ろから声をかけられた。
「何見てるの?」
振り返ると、同じクラスの女子が立っていた。彼女は私の観察ノートを覗き込もうとした。
「ちょっと見せてよ」
瞬間、私の中で何かが「パチッ」と音を立てた。
「触らないで」
声が、自分でも驚くほど冷たかった。相手が一歩後ずさる。
「な、なによ……」
私は相手をじっと見た。目が合った瞬間、相手は逃げるように去っていった。
その夜、鏡の前で自分の顔を見た。
(今のは……私の刃だ)
初めて、自分の中に「凶器」があることを自覚した瞬間だった。
でも、同時に思った。
(この刃を、誰に向けるべきなのか)
その日から、私はその「刃」を意識的に封印して生きた。表面上は、明るくて少し変わった子。人懐っこくて、でもどこか距離がある。先生からは「個性的な子」と言われ、友達からは「面白いよね」と言われる。
でも、本当の自分は、常に観察し、分析し、記録している。
(この刃を出したら、誰かを傷つけてしまう)
だから、観察に没頭した。見ることに集中することで、刃を内側に閉じ込めた。
家では相変わらず、誰も私の話を聞かない。でも、もう構わなかった。
(聞かれなくていい。私は私で、観察を続ければいいから)
大学時代で、文学サークルに入った。
でも、自分では進んで書かなかった。他のメンバーの作品を読み、感想を言うだけ。
「あなたの小説、面白いですね。でも、作者はここでこう思ってるんでしょ? 違いますか?」
メンバーは私の観察眼に驚いた。でも、同時に少し怖がった。
先輩が言った。
「お前は、書くより見る方に特化した方がいい。書くと、誰かを傷つけるかもしれないから。」
その言葉が、私の心に深く刺さった。
(そうだ。私は刃を持っている。書くことは、その刃を外に向けることだ)
先輩の言葉は、私にとって「許可」のようにも聞こえた。「書くな」と言われたのではなく、「書くことを選ぶなら、その重さを知れ」と言われた気がした。でも、その時はまだ、その重さを引き受ける勇気がなかった。
(いつか、書く日が来るのだろうか。その時、私は——)
サークルでの活動は「お遊び」でしかなかった。誰も本気で書いていない。自分も本気で書くつもりはない。
でも、どこかで物足りなさも感じていた。
先輩の言葉を反芻するたびに、別の声も聞こえていた。『もし書いたら、どうなるんだろう』——その声を、私は無視し続けた。無視し続けることが、安全だと思っていたから。
(このまま、ずっと見ているだけでいいのだろうか)




