第5章 純の章 前半第1話【変わった子】
小学三年生の春。
校庭の片隅で、アリの行列を眺めていた。何時間でも飽きない。一匹のアリが列から外れ、迷い、また戻る。その一匹を追い続ける。
死んだアリを見つけた時、目が輝いた。
「なぜ、死んだのだろう」
それをノートに貼り付けた。日付、場所、状況。観察記録の始まりだった。
友達は気持ち悪がって近づかない。でも、気にしない。見ることに没入している間、自分が消えていく感覚がする。それが心地よかった。
家では、誰も私の話を最後まで聞かない。夕食の席、父はテレビのニュースに目をやり、母は次の料理の支度で席を立つ。私の「今日あったこと」は、いつも途中で途切れた。
母が席を立った瞬間、純の中で何かが切り替わった。冷たい。フローリングの床のような、無機質な感覚が背中を這う。
(ああ、そうか。お母さんには、私の話を聞く価値がない。ならば、私が値付けしてやる)
その夜、日記に書いた。「今日、お母さんの価値が一つ下がった。今までは8。今日は6。あと2下がったら、私はお母さんの前で日記を開く。彼女は、私の記録を知らない。知る資格もない。」
だから、書いた。書けば、最後まで読まれる——たとえ読むのが自分だけでも。
それだけが、私の存在証明だった。いや——それだけが、私がこの世界を「支配する」方法だった。
小学五年生の夏。
周囲の目は明らかに変わった。
「純ちゃんって、ちょっと変わってるよね」
「またアリの死骸集めてる」
母親は、学校から呼び出されるたびに言った。
「すみません、うちの子ちょっと変わってて……」
でも、家に帰れば、その話はしなかった。父はテレビを見ており、母は台所に立っている。私が話し始めても、誰も最後まで聞かない。
「今日ね、アリがね……」
「ああ、そう。ご飯できたよ」
誰も、私の「見る」ことを理解しようとしなかった。
いや、理解しようとしなかった。
「変わった子」と言われるたびに、純は思った。(変わるのは、あなたたちだ。私は変わらない。私は、ただ見ている。正確に。あなたたちが、自分を見られないだけ)
彼女は、自分を「観察者」と定義した。観察者は、観察対象に感情移入しない。
それが、彼女のルールだった。
だから、寂しくなかった。むしろ、「彼らには見えていないものを見ている」という優越感が、彼女を満たした。
私は自分の部屋に戻り、日記に書いた。
「今日も、誰も最後まで聞いてくれなかった。でも、書けば最後まで読める。自分で。そして、彼らは私の記録を永遠に知らない。それが、私の勝ちだ。」




