第4章 瞳の章 第4話【窓の外の目】
その夜のことだった。
瞳のスマホに、一通のメールが届いた。差出人は不明。件名もない。本文には、たった一言。
「あなたも、見られていたのですね」
ふと見ると、文末に小さな文字列が添えられている。
『Error: **** / ****』
誰だろう。純か? 康介か? Eか? あるいは――知らない誰か。
(もしかしたら、私自身が、私にメールを送ったのかもしれない)
その考えに、瞳は少し笑った。でも、その笑顔はすぐに消えた。
(もしそうなら、私は――自分自身に「あなたも見られていた」と伝えたかったのか)
(誰かに見られることでしか、自分の存在を確認できなかったあの頃の自分に――)
(「見られることは怖くない」と教えたかったのか)
次の日、瞳は康介と会う約束をしていた。拓と康介と瞳の三人で会うことはない。一方、拓と康介はたまに会っているらしい。男同士のことはよく分からない。
駅前のカフェ。あの頃、よく行っていた店。内装は少し変わっていたけど、窓際の席だけは昔と同じだった。
康介は先に来ていた。コーヒーカップを手に、何かを考えているようだった。
「久しぶり」
「ああ」
瞳もコーヒーを注文した。ブラック。昔はミルクを入れていたのに、いつの間にか変わった。
「昨日、変なメールが届いたんだ」
「変なメール?」
「『あなたも見られていた』って」
康介は少し間を置いた。そして、静かに言った。
「……そうか」
それだけだった。彼は「誰から?」とか「どういう意味?」とか聞かない。それが彼だった。
瞳はその沈黙を、いまは自然に受けとめている。むしろ、心地よかった。
コーヒーが運ばれてきた。湯気が立ち上る。
康介が一口飲んで、顔をしかめた。
「……苦いんじゃないの?」
「いや。これぐらいがいい」
瞳は少し笑った。
康介も笑った。
彼の笑顔は昔と変わらない。
でも、その目には少しだけ疲れが見えた。それも、彼の一部だった。
「苦いのは、嫌いじゃないんだ」
「そうなの?」
「ああ。苦いからこそ、あとで甘いものが美味しく感じられる」
「それってコーヒーの話?」
「さあ」
しばらく無言でコーヒーを飲んだ。窓の外の街並み。変わらないようで、少しずつ変わっている。
「ねえ、康介」
「ん?」
「あの時、何か言いたかったこと、ある?」
康介はコーヒーカップを見つめたまま、少し間を置いた。
「……わからない」
「そう」
「でも、言わなくてよかったと思っている」
瞳はその言葉を聞いて、コーヒーの苦さを噛みしめた。
康介の言う通りだった。あの時、何かを口にしていたら、この穏やかな時間は存在しなかっただろう。
彼には言葉にする権利があった。けれど、彼はそれを飲み込む道を選んだ。
その判断の重さと、彼なりの慈しみに、瞳は静かに感謝した。
帰り際、康介が言った。
「瞳、お前は変わったな」
「そうかな」
「ああ。昔は、もっと……なんていうか、力んでた」
「力んでた?」
「うん。なにかに縛られてたような」
瞳はその言葉を聞いて、自分の胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
「……そうかな」
「うん、いいと思う」
「ありがとう」
康介は軽く手を挙げて、駅の方へ歩いていった。瞳はその後ろ姿を見送った。
その夜、家に帰って、瞳は日記を開いた。久しぶりだった。
昔の日記を読み返す。小学三年生の「クラス委員長になった」。中学の「生徒会長に選ばれた」。高校の「修学旅行の班」。どれも「何もしていないのにそうなった」と書かれている。
でも、今の自分ならわかる。
「何もしていない」のではなく、「無意識にしていた」のだ。自分が望む方向に周囲を動かしていた。それは、母から教えられた「特別」の呪いだった。
でも、今は違う。
今の私は、自分の手を挙げることを選んだ。純に「計画」を仕掛けた。それが裏目に出て、たくさんの人を傷つけた。でも、それは自分で選んだ結果だ。他人のせいじゃない。運命のせいじゃない。特別だから、でもない。
「特別じゃなくていい」
そう思えた時、初めて「自然」になれた気がした。
窓の外を見る。夜景が広がっている。その光のどこかに、あの頃の自分がいる気がした。自然に「選ばれた」と喜んでいた昔の私。
今の私は――ただ、そこにいる。
(見られることは、怖くない。見ないふりをすることが、一番怖い)
窓の外で、星がまたたいていた。
数年後。瞳は公園のベンチに座っていた。隣には拓。向かいには小さな女の子が走っている――光莉。まだ走るのがおぼつかない。時々転ぶ。でも、泣かない。自分で立ち上がる。
「ねえ」
光莉が駆け寄ってきた。手には小さな花。雑草のような、名前も知らない花。
「これ、あげる」
「ありがとう」
瞳はその花を受け取った。花びらは少し歪で、色も均一じゃない。でも、それがなぜか愛おしかった。
「お母さん、笑ってる?」
「うん。笑ってるよ」
「よかった」
光莉はまた走っていった。その後ろ姿を見ながら、瞳は思う。
(この子には、『特別』って言葉で縛らなくていい)
(『あなたはあなた』それだけで、十分だと伝えたい)
風が吹いた。花が少し揺れた。
拓が隣で呟いた。
「……きれいだな」
「何が?」
「その花。名前も知らないけど、ちゃんとここにある」
瞳はその花をもう一度見た。歪で、小さくて、誰も気づかないかもしれない。でも、確かにそこにあった。
それが、全てだった。
---了---
※外伝シリーズはまだまだ続きます。
次は、純の章です。




