第3章 康介の章 第9話【窓の外】
数日後、康介はまた書斎の窓の外を見ていた。
あの日、破いたメモの残骸は、もうゴミ箱から消えている。でも、彼の心の中には、まだ何かが残っている気がした。それは、後悔でも、未練でもない。ただ、あの日々があったという事実。それだけだ。
机の上には、若い頃の自分と瞳の写真がまだ置いてある。二人で笑っている。今の妻、楓の写真は、別の場所に飾ってある。二つの写真は、並んでいない。でも、それでいい。
遠くで、子供の笑い声が聞こえる。ただの日常の音だ。
康介は、そっと窓を閉めた。
季節は巡った。楓の手が、昔よりも細くなったことに、ある日気づいた。自分の手も、同じように節くれだった指をしている。二人で並べて、年老いたね、と笑い合う。それだけの時間が、彼にとっては何よりの贅沢だった。
息子は時々、顔を見せに来た。忙しいのだろう。でも、来るときは決まって、何かを持ってくる。それは雑誌だったり、甘いものだったり、時にはただの日常の報告だった。「父さん、元気か?」と聞かれ、「ああ」と答える。それだけの会話が、彼の胸を満たした。
ある夕暮れ、康介はベッドの上で楓の手を握っていた。窓の外では、陽が沈もうとしている。長い一日が終わろうとしていた。
「康介さん」
楓の声がした。かすかで、でも確かに。
「……ありがとう」
その一言だった。康介は何も言えなかった。ただ、握る手に力を込めた。楓の手は温かかった。あの日、書店の二階で感じた冷たさとは、まったく違う温度だった。
息子が部屋に入ってきた。彼は何かを言いかけて、やめた。そして、父のもう一方の手を握った。三つの手が、重なった。
康介は目を閉じた。瞼の裏に、あの日のコーヒーの苦味がよみがえる。あの日、瞳と飲んだコーヒー。もっと後に、楓と飲んだコーヒー。どちらも苦かった。でも、その苦さが、彼の人生だった。
彼はゆっくりと目を開けた。息子の顔が見える。楓の顔も。
「……お前には、何も言わない。お前が、自分で見つけろ」
彼の指先に、かすかな熱が残っていた。それは、ただ、ここにいたという証。それだけだった。
窓の外では、今日も誰かが誰かを見ている。その視線の先に、また別の誰かがいる。その誰かもまた、別の誰かを見ている。一瞬だけ、誰かに見られているような気配がした。
康介はどこともなく、遠い先に目をやった。
視線の連鎖は、どこまでも続く。今この瞬間も。
康介は、ただそこにいる。不完全なままで。何もしなかった過去を抱えたままで。そして、楓と息子という、もう一つの「在り方」と共に。
それで、十分だったのかもしれない。
時が、静かに閉じていった。
---了---
※この後も外伝シリーズはまだまだ続きます。
お楽しみに




