第3章 康介の章 第8話【光莉という問い】
それから十数年、時は過ぎた。息子も大学生になった。康介はその背中を見ながら、自分とは違う道を行くのだろうと思う。誇らしく、そして少しだけ寂しい。それでいい。それが、彼の願いだった。
ある日、光莉が康介を訪ねてきた。拓と瞳の娘だ。大学を卒業し旅をしているというその女性は、父と母の過去を調べているという。
康介は、庭のテーブルで応じた。楓が淹れたコーヒーが、湯気を立てている。
彼はカップを手に取り、一口含んだ。少しだけ眉をひそめた。
「苦いですか?」
光莉が尋ねると、康介は小さく笑った。
「ああ。ちょっと濃いみたいだ。似てるな、瞳さんに。」
康介は小さく笑った。
光莉も口元を緩めた。
ほんの数秒の、柔らかな沈黙が流れた。
彼女はカップを両手で包み、湯気を眺めてから、率直に聞いた。
「康介さんは、あの頃、どうして何もしなかったんですか?」
康介は少し間を置いた。そして、静かに答えた。
「それが、私の選んだ道だったから」
「後悔はしていないんですか?」
「後悔。したこともあった。でも、今は違う。あの時、もし何かしていたら、今の私はいない」
光莉は、その言葉の意味を考えているようだった。
「康介さんは、今、幸せですか?」
康介は少しだけ笑った。
「幸せかどうかはわからない。でも、これでいいと思っている。それが、私の答えだ」
彼女の目に、自分の若い頃の焦りを見た。
その焦りを、もう一度抱え直すことはできない。 だから、彼は静かに“わからなさ”を渡した。 それが、彼にできる唯一の継承だった。
光莉は、もう一つ聞いてみたかったことを口にした。
「康介さんは、誰かに見られてるって思いますか?」
康介は、少し驚いた顔をした。そして、庭の隅を見た。そこには、楓が丹精込めて育てている花が、静かに咲いている。
「思わないな。私は、誰にも見られずに生きてきた。それが、私の選択だったから」
「それは……寂しくないですか?」
康介は、庭の花を見つめたまま、答えた。
「時々、寂しくもあるよ。みんなが何かを決めていく中で、一人だけ決めないでいる。それが、私の選んだ道だから」
光莉は、その言葉を聞いて、少しだけうつむいた。そして、顔を上げて言った。
「康介さん、今日はありがとうございました。お話しできて、よかったです」
康介は、微笑んだ。
「こちらこそ。光莉さん、君はこれからも、きっとたくさんの人を見るだろう。でも、見ることにはいろんな形がある。監視もあれば、見守りもある。どれが正解かなんて、誰にもわからない。でも、選ぶことはできる。自分がどう見るかを。君のその目は、いつか誰かの救いになる。たぶん、君は気付いてるはずだ。そのときがきたらいつでも頼ってくれ。」
光莉は深くうなずいた。その目は、少し潤んでいるように見えた。彼女は何も言わずに立ち上がり、軽く頭を下げて、庭を去っていった。




