第3章 康介の章 第7話【もう一つの民主大国】
メモを破った日から、何ヶ月か経った。
康介は特に何かを変えたわけではなかった。ただ、少しだけ呼吸が楽になった気がした。机の引き出しからあのメモが消えただけなのに、書斎の空気が変わった。それだけだった。
新しい出会いは、思いがけない場所で訪れた。職場の近くのスポーツジムだった。
彼は決まった曜日にランニングマシンを使う習慣があった。何かを「変えよう」と思ったわけではない。ただ、体を動かすことが、何も考えずに済む数少ない時間だったからだ。
ある日、隣のマシンに女性がいた。
楓といった。
彼女は彼と同じペースで走っていた。
息も上がっていない。フォームもきれいだった。お互い目が合えば会釈する。それだけだった。
次の週も、その次の週も、同じ曜日の同じ時間に彼女はいた。やがて、軽く言葉を交わすようになった。仕事の話ではない。趣味の話。週末の過ごし方。最近読んだ本。何でもない会話だった。それが、康介には心地よかった。
「康介さんは、どうしてここで走ってるんですか?」
ある日、彼女が聞いた。
「特に。理由はないかな。ただ、続けているうちに、習慣になった」
「私もです。特に目的はないんです。でも、やめられないですよね」
その「特に目的はない」という言葉が、康介の胸に静かに響いた。彼はこれまで、常に「目的」を持っていた。最適を求め、正解を探し、誰かのために動いてきた。でも、この女性は違った。彼女はただ、そこにいた。それだけで十分だった。
楓は瞳とはまったく違う人だった。瞳は奔放で、直感的で、時に無謀だった。彼女の言葉にはいつも体温があった。でも、その体温は時に康介を焦がした。
一方、楓は穏やかだった。彼女は自分の意見をはっきりと言うが、それを押し付けることはない。康介の沈黙も、気にしない。ただ、そこにいる。それが、康介にとっては何よりの安らぎだった。
康介は自分の過去を彼女に話した。表面的ではあるが離婚のことも。でも、彼女はその話題には触れなかった。詮索しなかった。ただ、今の康介を見ていた。それが、彼にはありがたかった。
「楓さんは、どうして僕との結婚を考えてくれたんですか?」
ある日、彼は尋ねた。彼女は少し考えて、答えた。
「特に理由はないです。ただ、この人となら、一緒にいても疲れないなって思ったから」
康介は、その答えに救われた気がした。彼女は「最適」を語らない。「正しい」とも言わない。ただ、「疲れない」という感覚を大切にしている。それが、彼には新鮮で、そしてとても自然に思えた。
結婚してからも、彼女は変わらなかった。康介の「何もしない」という選択を、責めなかった。なぜそこまで動かないのか、と問い詰めることもない。ただ、一緒にいる。それだけで十分だと言わんばかりに。
ある夜、康介は初めて、これまで伝えてこなかった自分の過去を言葉にした。
「昔の妻とのこと。うまくいかなかった。俺は、何もしなかった。彼女が他の誰かを好きになっても、何も言えなかった。それが、正しいと思ったから」
楓は、少し間を置いた。そして、言った。
「それは、あなたの選んだ道なんですね。」
「うん。後悔してるわけじゃない。でも、それでよかったのか、今でもたまに考える」
「わからないこと、ありますよね。」
その一言に、康介はまた救われた。彼女は答えをくれない。でも、「わからない」を共有してくれる。それが、彼女の在り方だった。
彼は少しだけ変わった。変わったというより、戻ったのかもしれない。「何もしない」ことを自分で選んだという事実を、ようやく受け入れられるようになった。それは、楓という存在が、ただそこにいてくれたからだ。
結婚からしばらくして子宝に恵まれた。男の子だった。息子はすくすくと育ち、やがて自分の足で歩き、自分の言葉で話し始めた。康介はその姿を見ながら、自分が「何もしなかった」ことで、この子に何かを伝えられるのか、ふと思うことがあった。答えは出ない。でも、それでいいと思える自分が、そこにいた。




