第3章 康介の章 第6話【メモを破る日】
離婚から1年程が経ったある日、康介は書斎の机の引き出しを開けた。
彼はなぜか、その日の朝から「区切りをつけなければならない」という奇妙な確信に駆られていた。理由はわからない。ただ、ずっと引きずってきた何かが、そろそろ終わってもいいと、彼自身の心が囁いていた。
奥にしまってある、あの日のメモ。彼はそれを手に取り、しばらく見つめていた。
指先が、かすかに熱い。長年このメモに触れるたびに感じてきた、あの熱。それは後悔でも未練でもない。ただ、「あった」という事実だけが、形を変えて彼の指に絡みついている。
もし、このメモがなければ、拓のことを知らなかったかもしれない。瞳と拓の不倫も知らずに済んだかもしれない。離婚もなかったかもしれない。でも、知ってしまった。知ってしまったから、あの日、書店の二階に立った。見た。何もしなかった。
もし、あの時、何かしていたら?
声をかけていたら?
警察に通報していたら?
写真を撮って証拠を残していたら?
考えたところで、答えは出ない。もう何年も、その問いを抱えてきた。答えが出ないとわかっていながら、それでも考えずにはいられなかった。それが彼の「何もしない」という選択の代償だった。
彼はもう疲れていた。
答えを求めることに。
自分を責めることに。
「もし」を数えることに。
手元のメモを見つめる。
『stocking_night_0612』
この数字が、彼の人生を変えた。変えたけれど、彼はそれでも「何もしなかった」。その矛盾を、ずっと抱えてきた。
もう、いい。
彼はゆっくりと、メモを破き始めた。
一枚、二枚、三枚――細かく、細かく。
紙が裂ける音が、書斎に静かに響く。その音は、何かを終わらせる儀式のように聞こえた。破片が指の間からこぼれ落ち、机の上に散らばる。
バラバラになったあのIDが、ひらひらとゴミ箱の中に吸い込まれていく。
彼は少し後悔した。でも、その気持ちはすぐに消えた。もう、これでいい。これで、前に進める気がした。本当に前に進めるのかどうかはわからない。でも、その「わからなさ」を抱えたまま、一歩だけでも進んでみたかった。
破いたメモの残骸をしばらく見つめていた。
風もないのに、一枚だけがひらりと舞い上がり、どこかへ消えた。康介はそれを見送った。自分の手の中に留めておくものではないと、ようやく気づいたのかもしれない。
そして、静かにゴミ箱の蓋を閉じた。
蓋を閉じる音が、思ったより大きく響いた。それは、何かが終わった音だった。同時に、何かが始まる音でもあるような気がした。何が始まるのかはわからない。でも、それでいい。それが、今の自分の答えだった。




