第3章 康介の章 第5話【離婚届】
離婚届に印を押す日、康介はペンを握りしめたまま、しばらく動けなかった。
ペン先が、数ミリのところで止まっている。あと少し押せば、すべてが終わる。でも、その「あと少し」が、どうしても押せなかった。指が、自分の意志とは無関係に、震えている。
彼は「何もしない」ことを選んだ。
動かないことを選んだ。
それが自分の選択だと、ずっと思ってきた。
でも、今この瞬間、ペン先が震えている。
動かないはずの指が、震えている。
この震えは何なのか。
後悔か。それとも、別の何かか。
書店の二階で「何もしない」と決めたあの日から、もう何も変わっていない。彼は、あの時も、今も、何もしていない。ただ、見ていただけだ。
でも。もし本当に「何もしない」ことを選んでいたなら、なぜこんなにも指が震えるのか。もしそれが自分の選択なら、なぜこんなにも胸が締め付けられるのか。
もしあの時、声をかけていたら。
もし階段を下りていたら。
もしスマホで写真を撮っていたら。
もし、何か、たった一つでも違う選択をしていたら。今の自分は、ここにいないのかもしれない。
彼は自分の矛盾に気づいていた。動かないことを選びながら、その結果に動かされている。何もしないと決めながら、その決断に縛られている。その事実が、彼の中で静かに、しかし確かに疼いていた。
答えは出ない。出るはずもない。
彼はもう「最適」を求めていなかった。ただ、この震えだけが、自分がまだ生きている証だと、どこかで思っていた。
ペンを走らせる。インクが書類に滲む。その滲みが、まるで自分の心の内側を映しているように思えた。境界が曖昧で、どこで終わっているのかわからない。自分が何を考え、何を感じているのか、それすらもわからなくなっていた。
机の引き出しには、あの日のメモがまだしまってある。
カフェのナプキンに書かれたあのID。
『stocking_night_0612』
捨てられない。見ることをやめられない。
あの日、もしこのメモがなければ。そう思えば思うほど、このメモが自分の手から離れなくなる。このメモがなければ、自分は今ここにいない。それは幸福なのか、それとも呪いなのか。
わからない。
でも、彼はもう「最適」を求めていなかった。ただ、そこにある。それだけだ。
このメモは、彼にとって最後の「動かなかった」証だった。もしこのメモを捨てたら、あの日の自分まで捨てることになる気がした。動かなかった自分を。何も言えなかった自分を。それが怖くて、彼は何年も引き出しにしまい続けている。
ただ、そこにある。それだけだ。




