第3章 康介の章 第4話【呼び出しと沈黙】
あの日、康介は書店の二階のカフェにいた。
スマホには、偽装アカウントで送ったメッセージの履歴が残っている。「会えませんか」。それだけの短いメッセージ。
改札の前で、拓が待っている。キョロキョロと落ち着かない様子。スマホを何度も確認している。
この男が、瞳の選んだ男か。
康介はその姿をじっと見下ろした。心の中でいくつもの声が渦巻いていた。
一つは、瞳の幸せを願う声。
「彼が瞳を幸せにできるなら……それでいい」という諦めに似た声だった。
同時に、もう一つは、自分自身の沽券に関わる声。「なぜ彼なのか。なぜ自分ではないのか」という悔しさと嫉妬の声。
そしてもう一つ。「自分は瞳を幸せにできなかったのではないか」という、自問自答の声。
彼は瞳を愛していた。今でも、その気持ちが完全に消えたわけではない。でも、自分が彼女を幸せにできなかったのも事実だった。
あの日記を見たとき、彼は自分の「何もしない」という態度が彼女を傷つけていたと知った。正しさを追い求めるあまり、彼女の本当の声を聞き逃していた。
それなのに、今ここで動けば――何かをすれば――それは自分のプライドのためだけの行動になるのではないか。「自分は悪くない」と証明したいだけなのではないか。
もし彼に直接「お前では瞳を幸せにできない」と言ってやれば、少しはスッキリするかもしれない。騒ぎを起こしてやれば、少しだけ溜飲が下がるかもしれない。でも、それは結局、自分のための行動に過ぎない。瞳の幸せとは、何の関係もない。
拓が瞳を幸せにできるかどうか。それは、自分が決めることではない。瞳が決めることだ。彼女が選んだなら、それが彼女の幸せなのだろう。
康介は長年、「最適」を追い求めてきた。仕事でも、人間関係でも、いつも正しい選択をしようとしてきた。
しかし、その「正しさ」が誰かを傷つけていた。瞳の日記を見たとき、それがどれほど彼女を孤独にしていたかを知った。
だったら、今こそ「選ばない」という選択をしてもいいのではないか。「動かない」という選択で、彼女の幸せを願ってみてもいいのではないか。
拓が二階を見上げた。康介と目が合いそうになる。
彼は自然に一歩、後ろへ下がった。それは恐怖からではなかった。自分の決断を、もう後戻りできないようにするためだった。
足の裏が床に吸い付くような感覚があった。心臓の音だけが、耳の奥で響いている。
結局、彼は何もしなかった。ただ、そこに立っていただけだ。見ていただけだ。
だが、それは「諦め」ではなかった。それは「瞳の幸せを願う」という選択を、自分の意志で選んだ瞬間だった。
それは、自分が考えていたよりもはるかに難しい選択だった。簡単に動いてしまえば、あとは流れに任せられる。でも、「動かない」という選択は、ずっと自分で抱え続けなければならない。
彼はその覚悟を、胸の奥にそっと仕舞い込んだ。
最適を目指すのは、もうやめよう。ただ、バランスを見極める。それが、今の自分にできることだ。
そう思ったとき、康介の唇に、わずかな苦笑が浮かんだ。それは自分に対する嘲笑であり、同時に、これからも続くであろう迷いへの、かすかな許しでもあった。




