第3章 康介の章 第3話【結婚という均衡の崩壊】
結婚してから、何年が経っただろう。
最初はよかった。彼女の奔放さが新鮮だった。彼の「最適」と、彼女の「衝動」が、奇妙にバランスを取っていた。
ある日、休日の過ごし方で揉めた。康介は前々から計画していた博物館の特別展に行きたかった。でも瞳は、急に「海が見たい」と言い出した。
「でも、前から言ってたし、チケットも買ってあるし」
「じゃあ、一人で行けば?」
彼女は悪びれもせず、そう言った。そして、本当に一人で海に行ってしまった。康介は結局博物館に行かなかった。チケットは無駄になった。
また別の日、彼女は突然「料理を覚えたい」と言い出し、高価なフライパンを一式買った。二週間後、そのフライパンは一度も使われず、棚の奥にしまわれていた。康介が何も言わないでいると、彼女は逆に不機嫌になった。
「なんで注意しないの?」
「君がやりたいって言ったから」
「そうだけど。でも、普通は何か言うでしょ」
康介は黙って棚を見つめていた。胸の奥に、小さな安心と、もっと小さな虚しさが同時に生まれた。
(これでいいのかもしれない。俺が決めなくても、彼女が動いてくれるなら)
彼は、次第に「決めない」ことを覚えた。
決めないことは、最初は怖かった。
でも、誰かが決めてくれる瞬間に、胸の奥が静かに安堵した。
その安堵が、少しずつ快楽に変わっていった。
「どこに行きたい?」
「君の好きなところでいい」
それは優しさではなかった。
彼の「最適」が、彼女の「衝動」に屈伏していく過程だった。
瞳は、彼のそんな態度に、次第に苛立ちを覚えていった。
ある夜、彼女が突然言った。
「なんでいつも『君が決めて』って言うの?」
「だって、君の選ぶことには、いつも何かがあるから」
それは本音だった。でも、彼女には違って聞こえたのかもしれない。
その日から、会話が減っていった。
ある日、康介は彼女の日記を見てしまった。
「彼はもう、自分の言葉を持っていない」
その「一行」を見た瞬間、康介は静かに日記を閉じた。
信念、誇り、そして彼女への想い。
積み上げてきたはずのすべてが、遠い彼方へ置き去りにされた気がした。
何も声がでなかった。
他のことは、何も頭に入らなかった。
そして、何も言わなかった。




