第3章 康介の章 第2話【独裁国家との遭遇】
就職して五年目。順風満帆だった。
業務成績は上がり続け、周囲の評価も高い。彼が関われば、そのチームは「最適な状態」になる。それが、周囲の共通認識だった。
そんな時、他社との合同プロジェクトが始まった。
向こうの会社から来たメンバーの一人に、瞳という女性がいた。派手ではないが、どこか惹きつけるものがあった。初めて会ったのは、キックオフミーティングの後の飲み会だった。
彼女はあまり喋らなかった。でも、必要な時だけ、ぽつりと核心をつくようなことを言う。
「それって、本当に最適なんですか?」
その一言が、康介の耳に残った。
プロジェクトは難航した。クライアントの要求は日に日に増え、納期は迫り、チームは疲弊していた。康介はいつものように「最適解」を求め、残業を重ね、資料をまとめ、調整に奔走した。
誰も文句を言わない。誰も諦めない。ただ黙々と、与えられた任務を消化するだけ。それが「最適」なチームの姿だった。
でも、瞳は違った。
ある日、彼女の会社での合同ミーティング後、自販機前のベンチに、コーヒーを手に一人で座る彼女の姿を見つけた。
康介は足を止めた。
「まだ、いたのか」
「康介さんこそ。もう遅いですよ」
「ちょっとした調整で」
「それ、本当に必要なんですか?」
康介は答えに詰まった。
必要かどうか。それは「最適」かどうかとは、少し違う問いだった。
「みんな、疲れてます。康介さんも。休まないと、その『最適』も維持できなくなりますよ。ちょっと待っててください。」
彼女はそう言って、迷いなくボタンを押し、もう一つのコーヒーを差し出した。
「いかがですか?」
康介は小さく頷いて、受け取った。少し苦かった。
「苦いですか?」
「いや。悪くない」
その夜、なぜかそのコーヒーの苦味が、彼の胸にずっと残った。それが「最適」じゃない何かだったからかもしれない。
その後、プロジェクトが佳境に入った頃、クライアントから無理な追加要望が来た。
チームは対応に追われ、誰もが疲弊していた。会議の席で、誰かが「仕方ない、受けよう」と言った。
でも、瞳が言った。
「断りましょう」
沈黙が流れた。
「でも、クライアントが……」
「じゃあ、こう言いましょう。『あなたのプロジェクトが失敗するのも、仕方ないですか?』って」
誰も反論できなかった。
その瞬間、康介は気づいた。彼女は“最適”を壊すために生きているのではない。“最適”の外にある人間の呼吸を守るために、そう言ったのだ。その言葉に、康介は初めて「正しさ」と「優しさ」が同じ場所にあることを知った。
彼女は涼しい顔で続けた。
「このまま受けてたら、私たち、全員潰れますよ。それで、あとで何か良いことあります?」
結局、チームは追加要望を断る決断をした。クライアントは怒った。でも、その後のプロジェクトは、なぜかスムーズに進んだ。追い詰められて見失っていた無理な計画が、締切を決めたことで、かえって明確な道筋に変わった。康介は瞳の「直感」の鋭さを、改めて思い知った。
康介は、彼女のその「奔放さ」、そして確かな見極めに、強く惹かれた。
この人は、自分の「最適」で測れない。
プロジェクト終了後、二人は時々飲みに行くようになった。
ある日、たまたま二人きりになる機会があった。
「この前言ってた『最適』ってやつ、気になってるんですけど」
彼女は微笑んだ。
「みんなが『これが正解』って顔をするのが、なんか気持ち悪くて」
康介は言葉を失った。これまで彼が信じてきたものを、彼女は「変」と言った。でも、その言葉に、なぜか心がざわついた。
「それで、困ったりしないのか? 職場とかで」
「たまにしますよ。でも、今回は康介さんがいてくれたから、うまくいった。それだけです」
その「康介さんがいてくれたから」という言葉が、彼の胸にじんわりと広がった。
彼女の言葉は、論理ではなく体温だった。その体温が、康介の中の“最適”を溶かしていくのを感じた。
「俺にも、その『気持ち悪さ』が、少しだけわかる気がする」
それが、彼の本音だった。誰にも言ったことのない、自分の「ずれ」を、初めて口にした瞬間だった。
数週間後、康介は意を決して彼女を食事に誘った。
「今度の日曜、空いてますか?」
瞳は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに口元を緩めた。
「何があるんですか?」
「いや、特に何も。ただ、もう少しゆっくり話してみたいと思って」
「珍しいですね、康介さんが『特に何もない』って誘うなんて」
彼女はそう言って、笑った。その笑顔を見て、康介は確信した。
この人と、もっと一緒にいたい。
それが、「最適」じゃない選択だとしても。




