第2章 沙織の章 エピローグ 【描き続けること】
数日後、沙織はまた公園にいた。
今日も誰かが、似顔絵を描いてもらいに来る。老夫婦。若いカップル。子供を連れた母親。沙織は一人一人を描く。
あの連載を始める前、沙織は「傷つけない絵」だけを描いていた。
誰も傷つけず、誰も怒らず、誰も泣かない。
それは安全だった。
でも、誰にも届いていなかった。
初めて抗議の手紙を受け取った時、沙織は怖かった。でも、同時に思った。「私は、誰かに届いている」と。それが、描き続ける理由の一つになった。
それらは、消えない。
これからも、きっと消えない。
でも、それでいい。
消えないものと、一緒に生きていく。
それが、描く者の業だ。
あの老人がそうだったように。
日が傾き始める。
沙織は画材を片付け始める。
すると、一人の女性が駆け寄ってきた。
「すみません、まだいいですか?」
沙織は微笑んで、もう一度椅子を広げた。
「もちろん」
鉛筆を手に取り、女性の顔を見る。
その目は、少し不安そうだ。
「緊張しなくていいですよ。楽にして」
沙織が描き始める。
女性の表情が、少しずつ和らいでいく。
十分後、完成した絵を渡す。
女性が目を輝かせる。
「すごい! 私、こんなに優しい顔してるんですね」
沙織は微笑む。女性は嬉しそうに絵を受け取り、何度もそれを見つめてから、軽やかな足取りで去っていった。
沙織は、スケッチブックの最後のページをめくった。そこには、描き終えた絵の——ほんの数分前にそこにあった線の——かすかな跡だけが残っている。紙の表面の微妙な凹み。消しゴムの粉の残り香。
(あの絵は、もう私の手元にない)
(でも、確かにそこにあった)
(誰かの手に渡り、誰かの部屋の片隅に飾られ、あるいは引き出しにしまわれ、誰かの日常の一部になる)
(それが、私の描いたものの行く先だ)
沙織は、ふと思い出した。あの連載で描いた8枚の肖像画。あれらは今、どこにあるのだろう。誰かの手に渡り、誰かの目に触れ、誰かの心に引っかかったまま、どこかに眠っているのだろうか。
わからない。でも、それでいい。
沙織は、その温もりを手放さないように、そっと鉛筆を握り直した。
あの日、母の涙の跡をなぞった指先と同じ感覚。あの時感じた温かさは、支配の快感だった。
今、指先にある温かさは、それとは違う。
もっと小さくて、もっと脆い。
でも、確かにある。
間違えるかもしれない。
また誰かを傷つけるかもしれない。
でも、それでも描き続ける。
描かずにいられないから。
画材を片付け、家路につく。
明日もまた、ここに来る。
来る人来る人を、ただ描く。
選別しない。
支配しない。
ただ、そこにいる人の形を、紙の上に写し取る。
それが、彼女の選んだ道だった。
沙織はふと、母の顔を思い出した。
描けなかったあの顔。
今もまだ、正しくは描けない気がする。
でも、それでいい。
いつか、また会いに行く。
その時は、何も言わずに、ただスケッチブックを開く。それだけでいい。
空を見上げる。
雲が一つ、ゆっくりと流れている。
彼女は鉛筆を握り直した。次の人が来るのを待ちながら、スケッチブックの新しいページを開く。白い紙。まだ何もない。でも、もうすぐ誰かの顔がそこに生まれる。
ただ、そこにいる人の形を、紙の上に写し取る。
それが、彼女の選んだ道だった。
——了——
※この後も外伝シリーズはまだまだ続きます。
お楽しみに




