第2章 沙織の章 第13話 【おかえり】
純と沙織の「あのベンチ」は、駅から歩いて数分の場所にあった。初めて会った日も、沙織はそこでスケッチをしていた。通り過ぎる人々を、勝手に想像して描いていた。あの日、純が声をかけてこなければ、二人はただの通り過ぎる他人のままだった。
あれから何年も経ち、沙織はそのベンチに一人で座っていた。スケッチブックを開き、通り過ぎる人々を描いている。選別しない。支配しない。ただ、そこにいる人の形を、紙の上に写し取る。それが、今の沙織だった。
(純さんに、会いたい)
その気持ちはずっとあった。
でも、会えなかった。炎上したあの日、沙織は純から距離を置いた。「私も加害者になるのが怖い」――そう言って、逃げた。それから何年も、連絡を取らなかった。自分から逃げたのに、純を責めることなんてできなかった。
でも、今ならわかる。
あの時、沙織が逃げたのは、純を傷つけたくなかったから。いや――傷つけられるのが怖かったから。どちらにしても、沙織は純を裏切った。共犯者でありながら、一人だけ安全な場所に逃げ込んだ。その罪悪感は、ずっと消えなかった。連載を始めた時も、批判の手紙を受け取った時も、無料似顔絵を始めた時も。罪悪感は、沙織の手のひらに、鉛筆の跡のようにこびりついていた。
(でも、もう逃げない)
連載で、沙織は人を傷つけた。批判され、脅され、描けなくなった。それでも、また描き始めた。その経験が、沙織に教えてくれた。逃げても、何も変わらない。傷つけることを恐れていても、誰にも届かない。それなら――せめて、自分から。純に会って、謝ろう。謝って、それでも許してもらえたら――また、一緒に何か作りたい。
そう思った時、沙織の手は自然とスマホを握っていた。純のアドレスを開く。メッセージを打ち始める。
『純さん。あのベンチに、よくいます。いつでも来てください。待っています』
短いメッセージ。送信ボタンを押す指が、少し震えた。
その数日後、小雨が降っていた。
沙織は傘をささずに、ベンチでスケッチをしていた。雨の日の風景を描いてみたかった。濡れたアスファルト。にじむ街灯の光。急ぐ人々の足取り。それをぼんやりと鉛筆でなぞっている。
鉛筆の芯が紙を擦る音。
かさり、かさり。
それ以外は、雨音だけだった。
――かさり。
頭上で、雨の音が変わった。
誰かが傘を差し出している。
沙織は顔を上げた。
いや、上げようとした。
途中で止まった。
もし違っていたら。
もし、ただの通りすがりの親切な誰かだったら。
一瞬の間。
その間に、雨が一粒、沙織の頬を伝った。
ゆっくりと、顔を上げる。
そこにいたのは、純だった。
純は何も言わなかった。
ただ、傘を沙織のほうに傾けている。
その手は、傘の柄を両手で包むように握っていた。指先は、少しだけ白くなっていた。
雨が、傘の表面を叩く。
ぽつ、ぽつ、ぽつ。
「……久しぶり」
純の声は、いつも通り、少し冷たく聞こえた。でも、その目は、昔と変わらない。何かを観察するような、鋭い目。でも、その奥に、かすかな揺らぎがあった。何年分の思いが、その一言に込められていたのか、沙織にはわからなかった。
純は、少しだけ傘を動かした。雨の滴が、傘の縁から数粒、沙織のスケッチブックに落ちた。にじむ。でも、沙織はそれを気にしなかった。
「……来てくれたんですね」
「メールが来たから」
純は、沙織の隣に座ろうとして、一瞬止まった。ベンチの真ん中ではなく、少しだけ間を空けて。そして、ゆっくりと腰を下ろした。傘は、二人を包んでいる。
その距離が、何年もの空白を物語っていた。
沙織は、何を言えばいいのかわからなかった。謝ろうと思った。でも、言葉が出てこない。代わりに、スケッチブックを差し出した。そこには、さっきまで描いていた雨の風景。でも、その片隅に、一人の女性の後ろ姿が描かれていた。純が来る前から、無意識に描いていたらしい。
純はそれを見て、少しだけ目を細めた。
「……これ、私?」
「はい。来るって信じてたから」
純は何も言わなかった。
でも、スケッチブックを返さなかった。
沙織は、言う。
「あの時、ごめんなさい。私、逃げました。純さんを一人にして」
「……うん」
「でも、もう逃げない。私、やっとわかったんです。描かずにいられないって、そういうことなんだって。傷つけても、傷ついても、それでも描かずにいられない。それが、私たちの業なんです」
純は、少し間を置いた。そして、ぽつりと言った。
「知ってたよ」
「え?」
「ずっと前から。ベンチで初めて会った時から、沙織が何かを隠してるって、わかってた。でも、私は何も言わなかった。」
沙織はうつむきながら純の横顔を見た。
純は続ける。
その声は、ほとんどささやくように。
「言わなくても、わかる時はわかるから。それに――私も、同じだから。」
それだけだった。純は、自分のことは語らなかった。でも、その言葉の裏に、純自身が抱える何かがあることを、沙織は感じ取った。それは、言葉にされることを拒む、湿った重さだった。沙織が抱えるものと、同じ匂いがした。
沙織の目から、涙がこぼれた。
雨のせいじゃない。自分でもわかった。
純は、少し間を置いて、言った。
「……沙織、変わったね。おかえり」
その一言に、何年分もの痛みと赦しが込められていた。
雨は、まだ降り続いている。
でも、傘の下の二人は、少しだけ温かかった。
沙織は、もう一度スケッチブックを開いた。
鉛筆を走らせる。
今度は、純の横顔を。
純は何も言わなかった。
でも、少しだけ、口元を緩めた。
それが、沙織にとっての「おかえり」だった。




