第2章 沙織の章 第11.5話 【母の顔】
無料似顔絵を始めてから、さらに数年が経った。
駅からの道は、思っていたよりも短かった。
子どもの頃は、もっと遠かった気がする。同じ道を歩いているはずなのに、足取りだけが軽くなっている。その違和感に、沙織は少し戸惑った。
玄関の前で、インターホンを押す指が一瞬止まる。押せば、開く。それだけのことなのに、呼吸が浅くなった。
音が鳴る。
間を置かず、扉が開いた。
「……沙織?」
母は、少し驚いた顔をして、それからすぐに笑った。
「急にどうしたの」
「うん……近くまで来たから」
嘘ではないが、本当でもなかった。
部屋の中は、ほとんど変わっていなかった。家具の位置も、カーテンの色も、空気の匂いも。ただ、すべてが少しだけ小さく感じられる。
テーブルに向かい合って座る。
会話は途切れがちだった。
近況を話し、当たり障りのない言葉を重ねる。その間に、沈黙が何度も差し込まれる。
母は、変わっていないようで、どこか違っていた。皺が増えたとか、そういうことではない。表情が、読みきれない。
ふと、沙織は言った。
「……描いてもいい?」
母が少し目を丸くする。
「私を?」
「うん」
一拍置いて、母は頷いた。
「いいよ」
沙織は鞄からスケッチブックを取り出した。
ページを開く。
白い紙。
鉛筆を持つ。
指先が、わずかに冷えている。
顔を上げると、母がこちらを見ている。
その視線を受けて、手が止まった。
どこから描く。輪郭か。目か。口か。
いつもなら、迷わない。
鉛筆が紙に触れる。
細い線を一本、引く。
それだけで、何かが決まりすぎる気がした。
手が止まる。
もう一度、母の顔を見る。目元に、かすかな影。口元は、笑っているようにも、そうでないようにも見える。さっきと同じ顔のはずなのに、同じに見えない。
もう一本、線を足す。今度は少し強く。
違う。
消す。
消しゴムの粉が、紙の上に広がる。白が濁る。
沙織は、気づいた。
――この人の顔が、定まらない。
輪郭を取ろうとすると、内側がぼやける。目を描こうとすると、表情がずれる。どこかを決めるたびに、別の何かが逃げていく。
「どうしたの?」
母が、少し首をかしげた。
「ううん……」
沙織は答えながら、もう一度線を引こうとした。でも、鉛筆は紙に触れる直前で止まる。
描けば、決まる。決めてしまう。
それが、できなかった。
「……昔の、あの絵」
不意に、母が口を開いた。
沙織の手が止まる。
「覚えてる?」
少しだけ、間があく。
「うん」
「あのときね」
母は、少しだけ目を伏せた。
「嬉しかったのよ」
小さく笑う。
「あなたが、ちゃんと人の顔を見てたから」
沙織は、何も言えなかった。
嬉しかった。
そう言われて、初めて知った。
あの涙は、悲しみではなかったのかもしれない。支配の証ではなかったのかもしれない。
ただ――自分の子が、誰かの顔を真剣に見つめていたことが、ただただ嬉しかっただけなのかもしれない。
(私は、ずっと勘違いしていた)
(あの涙を、「泣かせられた」と思っていた)
(でも、違った)
(母は、泣いていたんじゃない。嬉しくて、涙が出ただけだった)
沙織は、スケッチブックに目を落とす。
途中で止まった線。消し跡。
まだ、何にもなっていない白。
しばらく、そのまま見つめていた。
やがて、鉛筆を置く。
「ごめん。今日は……うまく描けない。これ、あげられない」
母は、少しだけ驚いた顔をして、それから首を振った。
「いいのよ」
その声は優しかった。今度は、その優しさが何なのか、少しだけわかる気がした。
帰り際、玄関で靴を履く。
「また来るね」
そう言うと、母は頷いた。
「いつでも」
扉が閉まる。
外の空気は、少し冷えていた。
沙織は歩き出す。鞄の中で、スケッチブックがわずかに擦れる音がした。
あの白いページのことを思い出す。
途中で止まった線。
完成していない。でも、描かなかったわけでもない。
母の言葉が、頭の中で何度も繰り返された。
「あなたが、ちゃんと人の顔を見てたから」
(私は、見ていたんじゃない。選んでいたんだ。誰を描き、誰を描かないかを)
(でも、母はそれを「見る」と言った)
(それが、母にとっての真実だった)
(そして――もしかしたら、それもまた、一つの真実なのかもしれない)
胸の奥で、何かが静かにほどけていく音がした。
名前は、まだない。でも、もう少しで、そこに届きそうだった。




