第2章 沙織の章 第11話 【無料似顔絵】
それからさらに月日が流れ、ある日、沙織は小さな折りたたみ椅子を買った。そして、日曜日の午後、あの公園の片隅に座り、手書きの看板を立てた。
「無料似顔絵――おひとり様一枚」
最初は誰も寄ってこない。
でも、一時間ほど経つと、一人、また一人と、人が集まる。
来る人来る人を、ただ描く。
選別しない。
支配しない。
ただ、そこにいる人の形を、紙の上に写し取る。
あの老人は、もう公園には来ていなかった。
いつからか、姿を消していた。
沙織は時々、彼のことを思い出した。
彼もまた、どこかでこの「描かない日々」を過ごしたことがあるのだろうか。それとも、今もまだ、どこかで描き続けているのだろうか。
ある日、若い女性が来た。
彼女は沙織の連載を知っていた。
知っていて、来たのだと言う。
「沙織さんの絵、好きでした。でも、あの連載は……ちょっと怖かった。加害者の顔を描くなんて、って思ってました。でも、今日のこの絵は、優しいです」
沙織は、何も言わなかった。
言えるはずがなかった。
描き終えた絵を渡す。
女性はそれを見て、泣いた。
「ありがとうございます」
女性が去った後、沙織はしばらく動けなかった。指先が、幼い頃と同じようにじんわりと温かかった。画用紙の端に落ちた母の涙の跡を、指でなぞったあの感触が蘇る。胸の奥の穴が、ほんの少しだけ埋まる気がした。
沙織は鉛筆を握り直した。
温かさは、すぐに指の先から消えていった。
(選ばない。それも、一つの選択なんだ)




