第2章 沙織の章 第10話 【老人】
連載を終えてから何年も経ったある日、沙織は久しぶりに外を歩いた。近所の公園で、一人の老人が似顔絵を描いていた。小さな椅子に座り、無料で、誰にでも、同じように。
沙織は遠くから、その様子を眺めていた。老人は誰にでも優しく、誰にでも同じように描く。褒められても、笑顔で受け流す。批判されても、怒らない。
何度か公園に通ううちに、老人の方から声をかけてきた。
「あなたも、描く人ですか」
「……昔は」
「そうですか。じゃあ、今は?」
「描けなくなりました」
老人は何も言わなかった。
ただ、次の人が来るのを待っていた。
その横顔は、何かを語るでもなく、何かを問うでもなく、ただそこにあった。
ある日、沙織は思い切って尋ねた。
「どうして、無料で描いてるんですか?」
老人は、少し間を置いた。
その目は、遠くを見ていた。
何を見ているのか、沙織にはわからなかった。「……若い頃、いろいろあったんです」
それだけだった。
老人はそれ以上、何も言わなかった。
沙織も、聞かなかった。
聞く必要がないと思った。
誰にでも、語らない過去がある。
それを無理に引き出すことが、優しさではない。
代わりに、沙織は言った。
「私も、いろいろありました」
老人は、少しだけ笑った。
「そうでしょうね」
それだけだった。
老人はまた、次の人が来るのを待っていた。
その横顔は、何かを語るでもなく、何かを問うでもなく、ただそこにあった。




