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第2章 沙織の章 第9話 【描けない日々】
絵を描かない日々が続いた。
キャンバスを立てることもなく、鉛筆を削ることもなく、ただ窓の外を眺めるだけの日々。窓の外の桜が散り、緑が濃くなり、紅葉が落ち、雪が積もっても、沙織はまだ筆を持てずにいた。
ある真夜中、沙織は連載の原稿を取り出した。8枚の肖像画。
一つ一つ、机の上に並べる。
加害者の目の周りに何度も重ねた鉛筆の跡。
口元の歪み。
頬の窪みに落ちる影。
沙織はライターを手に取った。
指が震えた。
火をつければ、消える。
誰の目にも触れなくなる。
自分の中からも、消える。
一枚目を手に取った。
紙の端に、炎を近づける。
熱が指先に届く。
あと少し。
あと少し押せば――
指が動かなかった。
彼が言った。
「自分の本当の姿を描いてほしい」と。
沙織はライターの火を消した。
原稿を束ね、引き出しに戻した。
炎はつけられなかった。
指先に残った熱だけが、しばらく消えなかった。
スマホの着信音が怖くて、常にサイレントモードにしていた。何度か編集者から連絡があったが、無視し続けた。ある日、着信履歴に30件の不在着信が積もっているのを見て、沙織はスマホの電源を切った。それから、電源を入れることはなかった。




