第2章 沙織の章 第8話 【連載】
連載が始まると、反響はすぐに来た。
沙織が最初に描いたのは、ある放火事件の加害者だった。彼は刑務所から沙織に手紙を送り、「自分の本当の姿を描いてほしい」と依頼してきた。沙織は面会を重ね、彼の言葉を聞き、彼の横顔をスケッチした。
初めて描いた肖像画。
沙織は彼の目の周りに何度も鉛筆を重ねた。
そこには、後悔か、諦めか、あるいは何か別のものが沈んでいた。彼の口元はわずかに歪んでいて、それが笑っているのか、苦しんでいるのか、判別しがたい。影は頬の窪みに深く落ちていた。
完成した肖像画は、美しくなかった。赦しもなければ、哀れみもない。ただ、そこに一人の男がいた。
沙織は、彼が自ら語った「自分はこういう人間だ」という言葉を、そのまま絵にした。
反響は大きかった。
SNSでは賛否が分かれた。
加害者の顔を世に晒すなんて、彼にも人権があるだろう、でもこれが真実なんじゃないか、沙織の絵は今までと全然違う、覚悟を感じる。
拡散されるたびに、批判も増えた。
でも、それは全国規模の「炎上」と呼べるほどではなかった。せいぜい、美術業界の片隅で話題になる程度だ。テレビで取り上げられることもなければ、新聞の社会面に載ることもなかった。
しかし沙織にとっては、それで十分だった。
いや、十分すぎるほどだった。
これまで彼女の絵は、誰も傷つけなかった。
誰も怒らなかった。
誰も泣かなかった。
それは安全だった。
でも、それと同時に、誰にも届いていなかったのかもしれない。今、初めて、誰かが彼女の絵に怒っている。誰かが傷ついている。その事実が、沙織の全身を駆け巡った。指先ではなく、もっと深いところで、何かが震えた。
沙織は、すべてのコメントを読んだ。
賛辞も、批判も、中傷も。
目が乾くのも構わず、画面に張り付いた。
連載が進むにつれ、沙織の元に抗議の声が届くようになった。中には直接的な脅しもあった。
その中に一通の手紙があった。差出人は、かつて連載で取り上げた加害者の母親だった。便箋には、所々文字が滲んでいた。涙の跡だろうか。それとも、書く手が震えていたのか。
「あなたの絵のせいで、私たちの住所が特定されました。毎日、電話がかかってきます。『お前の息子がやったことだ』と。私たちはもう、この街で生きていけません。息子は刑務所の中で、あなたの絵を見て泣いていました。『自分はこれからもずっと、この顔で生きていくんだ』って。あなたは、何を描きたかったんですか。」
沙織はその手紙を、一晩中見つめていた。返信しようとしたが、指が動かない。何て書けばいいのか、言葉が見つからなかった。喉の奥がひりつき、水を飲んでも収まらなかった。彼女の描いた一枚の絵が、誰かの人生を変えてしまった。
何度も返事を書こうとした。「申し訳ありませんでした」「私の絵が原因で」「どうすればよかったのか、今もわかりません」。
書いては破り、書いては破った。
どの言葉も、嘘のように思えた。
本当に申し訳ないと思っているのか。
もしまた同じ依頼が来たら、断れるのか。
その問いが、書いた文字をすべて嘘にした。
結局、一通も出さなかった。
連載は全8回で終了した。出版社からは続編の依頼もあったが、沙織は断った。
「もう、描けなくなりました」
それは嘘ではなかった。
確かに、最後の回を描き終えた後、沙織は筆を握れなくなった。誰かを傷つけることの重さに、自分の心が耐えられなくなっていたのだ。




