第2章 沙織の章 第7話 【決意】
それから数年。
沙織は「傷つけない絵」を描き続けていた。
仕事は順調だった。
でも、胸の奥に、ずっと穴が開いている気がした。
ある日、公園で似顔絵描きの老人を見かけた。子供たちに囲まれ、笑顔で描いている。その絵を見た子供が、涙を浮かべて「おばあちゃんに似てる」と言った。
沙織は、その光景を遠くから見ていた。
老人の手元は、驚くほど滑らかだった。
選別しない。
来る人来る人、ただ描く。
そこにいる人の形を、紙の上に写し取る。
この人は、私と違う。
選別していない。
支配していない。
その夜、沙織はスケッチブックを開いた。
白い紙の上に、しばらく何も描けなかった。
ペンを持つ指先だけが、わずかに震えている。やがて、一本の線を引く。
それは――誰かの顔になりかけて、まだならない線だった。
途中で止める。
完成させないことを、選んだ。
その瞬間、胸の奥で何かが静かにほどけた。
――これでいい。
初めて、そう思えた。
数週間後、沙織の元に一本の連載依頼が来た。出版社からのものだった。
「『裁かれる人々』――事件を起こした加害者の肖像画を、客観的に描いてほしい。美しさや優しさで包まない、ありのままの姿を。リスクはあるかもしれませんが、あなたの画力ならできると信じています」
沙織は迷った。
今まで描いてきたのは、誰も傷つけない優しい絵だった。でも、その「優しさ」こそが、自分が現実から逃げるための鎧だったのではないか。描けば、誰かを傷つける。描かなければ、何も変わらない。その夜、沙織は『裁かれる人々』の連載を始める決意をした。




