第2章 沙織の章 第4話 【ベンチの女(本編『彼女の背中』と並行)】
あの日、沙織は駅前のベンチでスケッチブックを広げていた。通り過ぎる人々を、何気なく眺めている。
そこに、一人の女性が現れた。同じようにベンチに座り、同じように通り過ぎる人々を眺めている。
目が合った。
女性の方が先に声をかけた。
「すみません、何を描いているんですか?」
沙織は一瞬迷った。
でも、なぜか話したくなった。
「人です。通り過ぎる人たちを、勝手に想像して描いてるんです」
女性の目が、ほんの少し輝いた。
「私も、同じことをしています。観察するのが好きで」
それが純との出会いだった。
その後、何度か会って話すうちに、沙織は純の中に、自分とは決定的に違うものがあることに気づいた。
純は「見る」ことで世界と向き合っている。
でも、沙織は「描く」ことで世界から逃げている。選別から逃げている。支配欲から逃げている。
ある日、純が言った。
「沙織の絵、優しいね。でも、その優しさは、何かを隠すためのものじゃない?」
沙織の手が止まった。
スケッチブックの上で、鉛筆の芯が折れそうになるのを感じた。
「……どういうこと?」
「うーん、なんとなく。私、人の観察には自信があるから。沙織の絵は、どこか遠くから見てる感じがする。近づこうとしてないというか」
沙織は答えられなかった。
その夜、家で一人、沙織は今日のことを考えた。純の言葉が、何度も頭の中をぐるぐる回る。舌の先が、かすかに鉄の味がした。緊張で、無意識に唇を噛んでいたらしい。




