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第2章 沙織の章 沙織の画布 序章 【画用紙のにおい】
六歳の沙織は、クレヨンで家族の似顔絵を描いていた。母ができあがった絵を見て泣いた。その涙を、沙織はじっと見つめていた。
母は、泣いていた。
理由は、わからなかった。
ただ、涙だけが静かに落ちていた。
そのとき、沙織は確信していた。
「ああ、この人は泣かせられるんだ」
ほんの少し、言葉を選べば。
ほんの少し、視線を逸らせば。
大人は、簡単に崩れる。
私はそれを、「理解した」と思った。
母の涙は、一粒だけ、画用紙の端に落ちた。
紙がその一滴を吸い込み、わずかに波打つ。
沙織はその跡を指でなぞった。
かさかさしていた。
この棒一本で、大人を泣かせられる。
その事実が、腹の底をじんわりと温めた。
その夜、寝る前に、もう一度描いた絵を眺めた。母の涙の跡。かさかさした感触が、指の先に残っていた。
――それは、まだ名前のない感覚だった。
ただ、確かに「何かを動かした」という手応えだけが、残っていた。
※完結済【彼女の計画】も合わせてご覧ください。より深く物語を堪能できます。




