第1章 Eの章 Eの選択―彼女の静かな核― 第3話 【何でもない日の、何でもない選択】
光莉が帰った後、Eは孫を連れて近くの公園へ行った。ブランコを押し、砂場で遊んでやり、滑り台の下で受け止める。孫は無邪気に笑う。
隣のベンチに、若い家族連れが座っていた。
母親が子供に絵本を読んでいる。
父親はスマホをいじっている。
ごく普通の、どこにでもある光景。
やがてその家族が立ち上がった。
母親が子供の手を引き、父親がベビーカーを押す。三人は歩き始めた。
その時、Eは気づいた。
ベンチの隅に、小さな水色のタオルが置き忘れられている。うさぎの刺繍が入った、子供のものだろう。
「あの、忘れ物ですよ」
声をかける。
母親が振り返り、慌てて戻ってきた。
「あ、すみません! ありがとうございます」
母親はタオルを受け取り、笑顔を向けた。
子供も「ありがとう」と言った。
Eは「どういたしまして」とだけ答え、
またベンチに座った。
それだけのことだ。
誰にでもできる、ほんのささいな行動。
でも、昔のEなら、
気づいていても声をかけなかったかもしれない。
(今は、違う)
陽が傾き始めたので、Eは孫の手を引いて帰り道を歩いた。孫が言う。
「おばあちゃん、今日は楽しかったね」
「うん、楽しかったね」
「また行こうね」
「そうだね」
何でもない会話。何でもない帰り道。
家に帰り、Eは窓の外を見た。
都会の夜景が広がっている。
その光のどこかに、拓がいる。瞳がいる。純がいる。光莉がいる。みんな、それぞれの場所で生きている。
(私は、一枚のメモを置いた。困っている人に手を貸した。忘れ物に気づいて声をかけた)
(それだけのことだ)
(でも、それでいい)
窓の外では、今日も誰かが誰かを見ている。
その視線の先に、また別の誰かがいる。
その誰かもまた、別の誰かを見ている。
視線の連鎖は、どこまでも続く。
でも、今この瞬間――
Eは、ただそこにいる。
それだけで、十分だった。
---了---




