第1章 Eの章 Eの選択―彼女の静かな核― 第2話 【光莉という問い】
《あの「非常階段のメモ」から、どれだけの時間が経っただろう。Eは新しい職場に慣れ、後輩にも恵まれ、今は孫の相手に追われる日々を送っている。あの頃のことは、もう遠い過去だと思っていた。》
《だから、突然の来訪者に名乗られた名前を聞いた時、一瞬、耳を疑った。》
「拓さんと瞳さんの娘です。光莉と申します」
《拓。瞳。その名前を聞いて、Eの胸の奥で何かが静かに動いた。あの日、渡り廊下で見た非常階段の二人。自分が置いた一枚のメモ。その後のすべて。》
光莉が訪ねてきたのは、初夏の午後だった。
Eは孫の靴を並べながら、その名前に一瞬息を呑んだ。自分に何の用があるのか、見当もつかなかった。
お茶を出し、向かい合って座る。
光莉は真剣な目で言った。
「いま、父と母の昔のこと、知りたくて、いろんな方に、お話伺っているんです。Eさんは、あの頃のことをどう思っていますか?」
Eは静かに話し始めた。
あの日見たこと。
非常階段の二人と、それを見ていた誰か。
そして、自分が置いたメモのこと。
「あの時、初めて自分で選んだんです。たとえ間違っていても、それが自分の選択だって思えたから」
光莉はノートに何かを書き留めた。
「その後、どうやって変わったんですか?」
「変えたわけじゃないよ。ただ、自分は『見ているだけ』の人間だって認めた。それで、その自分でもできることを、少しずつやっていっただけ」
「例えば?」
「困っている人がいたら、手を貸す。ミスをした後輩に、一緒に直そうかと声をかける。それだけ」
光莉は少し間を置いて言った。
「みんな、それぞれの中にある、揺るがないものを探しているんです。Eさんにも、そういうものがあるんじゃないかって」
Eは小さく微笑んだ。
「私は、そんなものはないよ。ただ、普通に生きてきただけ」
光莉は、それ以上何も聞かなかった。
代わりに、静かにうなずいた。




