第1章 Eの章 Eの真実 第6話 【メモ】
一週間後、Eは決断した。
彼女はメモ用紙を手に取った。
何度も何度も、書いては消し、書いては消した。
「非常階段のこと」——違う。これじゃ何のことかわからない。
「あの日、見ました」——見たものは何だ? はっきりしない。
「3月11日、非常階段」——日付だけでは、伝わらない。
最後に、彼女が書いたのは、たった一言だった。
「非常階段、見えてましたよ」
それだけ。誰が、何を、いつ——何も書かなかった。ただ、その一言だけ。
(これでいい。これなら、誰かを特定しない。ただ、「見えていた」という事実だけを伝えられる。)
差出人は書かなかった。
翌朝、Eはいつもより早く出社した。
拓と瞳の机は、入り口から見える位置にある。二人がまだ来ていないことを確認し、足早にそのフロアへ向かう。しかし、拓の席の隣には、すでに別の社員が座っていた。資料を広げ、パソコンに向かっている。
Eはそのまま通り過ぎた。何気ないふりをして、自分のフロアに戻る。
(今日は、無理だ)
数日後。今度は、昼休みの時間帯を狙った。
Eは「別フロアに用事がある」ふりをして、階段を一つ下りる。拓の席が見えた——彼が座っている。書類に目を落とし、何かを考え込んでいる。
(今は……ダメだ)
Eはそのまま通り過ぎ、用もないのに廊下を歩き、また階段を上がった。
また別の日。今度は、終業時間を過ぎてから。
Eは残業のふりをして、自分のデスクで時間を潰した。時計を見る。19時、20時——何度もトイレに行くふりをして、階段の踊り場からフロアを覗いた。
まだ、誰かがいる。
持っていけなかった。今日も、無理だった。
(もう一度だけ——もう一度だけ、チャンスがあれば)
翌日。Eは朝からそわそわしていた。
仕事に集中できず、何度も手が止まる。夕方、終業時間のチャイムが鳴る。Eは深呼吸をした。
(今日こそ——)
彼女は書類を手に取り、何気ないふりをして階段を下りた。
フロアに入る。人影はまばらだ。拓の席を見る——いない。瞳の席も空いている。
しかし——瞳の前の席に、別の社員が座っている。パソコンに向かい、集中している。
(まずい。見られたら——)
Eの心臓が激しく打つ。手のひらに汗が滲む。
でも、拓の席は空いている。そこだけが、ぽっかりと。
(今しかない)
Eは、書類を胸に抱えたまま、そっと拓の席に近づいた。誰も気づいていない。瞳の前の席の社員は、こちらの気配に気づいていないようだ。
彼女は、机の上の書類の束の上に、メモを置いた。裏向きに、そっと。
それだけだった。数秒の、ほんのささいな動作。
Eはそのまま、何もなかったかのように自分のフロアへ戻った。
階段を上がりながら、彼女は自分の心臓の音がやけに大きく聞こえるのを感じた。手が震えている。息が乱れている。
でも——やった。自分は、やった。
(これでいい。これで、いいんだ)
その夜、家に帰ってからも、Eの手の震えはしばらく止まらなかった。
彼女は布団の中で、何度もその瞬間を反芻した。
(私は、あのメモを置いた。誰にも見られずに。誰にも気づかれずに)
(それは、誰にでもできることだったかもしれない。でも、私にとっては——)
(私にとっては——)
その「何か」を、言葉にすることはできなかった。でも、確かに、彼女の中で何かが動いた。
それは、小さな、ほんのささやかなうごめきだった。でも、確かにそこにあった。
(私は、変わったのだろうか)
(わからない。でも——)
彼女は目を閉じた。まぶたの裏に、あの日の非常階段が浮かんだ。二人の人影。それを見つめる「観察者」。そして——自分が置いた、一枚のメモ。
(あの「観察者」は、誰だったんだろう。本当にいたのか。それとも——)
(いや、いた。確かにそこに、誰かが立っていた)
(でも、それが誰なのかは、わからない。これからも、わからないままかもしれない)
(それでいい。それが、私が見たものだ)




