第9話 分かち合う温もり
鉄臂城までの道のりは思いのほか険しく、日暮れとともに二人は街道を外れた林で野宿をすることになった。浩然がこの地域に特有の、夜にしか採取できない薬草を求めていたからだ。
「今夜はこのあたりで休もう。玲玲、体は大丈夫かい?」
「はい! 野宿なんて初めてで、なんだか胸が躍りますわ」
「はは、それは頼もしい。初めての野宿が少しでも快適なものになるよう、準備を急がなくては」
浩然が薪を拾いに闇の中へ消えると、玲玲は一人、荷物の番を任された。だが、甲斐甲斐しく働く彼の姿を思い出すうち、自分も何か役に立ちたいという想いが募っていく。
「これなら、私にもできるかもしれないわ」
玲玲は火打石を手に取り、浩然の仕草を思い出しながら見様見真似で火を起こそうとした。しかし、慣れぬ手つきで何度試みても、虚しく火花が散るばかり。焦るうちに石が滑り、指先を強く打ってしまう。
「いたっ……」
「大丈夫か?」
ちょうど薪を抱えて戻ってきた浩然が、驚いて駆け寄った。
「少し見せてごらん。……ああ、これくらいならすぐに良くなる」
浩然は手際よく手当てを済ませると、一切の無駄なく焚き火をおこし、温かな汁物を作り始めた。
揺らめく炎を前に、玲玲は煤で汚れた己の手を見つめ、膝を抱えて小さく丸くなった。
「私……物語に登場する英傑を支える女人のように振る舞いたいのに。結局、お荷物になるばかりだわ」
浩然は何も言わず、彼女の傍らに琵琶をそっと差し出した。
「玲玲、私には火は熾せても、心を解かす旋律は奏でられない。君の奏でる音色こそが、私にとっては何よりの特効薬なんだよ」
浩然の言葉に促されるまま、玲玲は弦に指をかけた。
夕闇に溶けていく麗弦の調べは、一日の疲れを洗い流し、魂を浄化していくような清らかな響きを湛えている。琵琶を抱く玲玲の凛とした横顔を見て、浩然は満足げに微笑んだ。
やがて差し出された器の汁物は、驚くほど優しい味わいだった。温かさが腹の底へ染み渡るにつれ、玲玲のこわばっていた心も、夜の静寂の中でゆっくりと解けていく
。
「この琵琶は『麗弦』といって……幼い頃に亡くした母の形見なのです。母はよく、北極星を仰ぎながらこれを弾いていました。その瞳は悲しげでしたが、同時に、いつかこの音が届くはずの『誰か』を懸命に探しているようでもありました」
その言葉に、浩然もまた遠い記憶に目を細めた。彼の母もまた、彼が幼き頃に世を去っていた。
「私の母は、よくこう言っていた。『心の中に小さな焚き火を持ちなさい。凍えている人がいたら、迷わずその火を分けてあげなさい。……ただし、自分が燃え尽きるまで焼いてはいけない。共に温まる術を考えなさい。それが、真に矜持ある男のすることだ』と」
浩然が慈しむように語るその教えを聞き、玲玲はたまらず顔を上げると、その矛盾を突くように異を唱えた。
「浩然様……。貴方はいつも、ご自分が燃え尽きて灰になりそうな勢いで、惜しみなく火を配っていらっしゃいますよ?」
浩然は一瞬、虚を突かれたように瞬きをした。それから、己の滑稽さを認めるように、軽やかに肩をすくめてみせた。
「はは、そうかな。だが、路銀だけは一度も尽きたことはないだろう?」
ぱちぱちとはぜる焚き火の音の中、二人の笑い声が夜の闇に優しく溶けていった。
◇
浩然という男は、玲玲が読み耽っていた恋物語に登場するような、完璧な英雄ではない。
けれど、彼女が旅の重圧に押し潰されそうになるとき、彼は何も言わず、当たり前のような顔をしてすべての荷を肩代わりしてくれる。そんな、相手に気負いを感じさせない静かな優しさを持っていた。
兄や北斗派の安否を案じ、玲玲の心に不安の影が差すと、彼は決まっていつもの穏やかな笑顔を浮かべるのだ。
「兄君の元へ辿り着くまでは、私が必ず貴方を守り抜く。だから、どうか安心してくれ」
その言葉に嘘がないことを、玲玲は知っている。そして何より、彼が自分の奏でる琵琶の音色を、誰よりも慈しみ、心から愛してくれていることも。
いつしか玲玲の心には、温かな火が灯るような安心感が生まれていった。
この人は、私のわがままも、人には見せられぬ弱さも、そのすべてを大きな器で受け止めてくれる――。
運命の「大侠」ではないかもしれない。けれど、今の彼女にとって浩然は、何ものにも代えがたい唯一無二の伴走者となっていた。




