第10話 神速と、消えた剣仙
二人はようやく目的の場所に着いた。
武術の里、鉄臂城。そこかしこで若者たちが拳を突き出す威勢の良い声が響き、夕闇が迫れば雑技師たちが火を吹き、宙を舞う。
力こそが理とされるこの街で、一角の路地が冷たく凍りついている。
街で最も勢いのある武館の門弟たちが、みかじめ料を払えぬ貧しい親子を囲んでいた。周囲の武芸者たちも、その武館の背後にある権力を恐れ、見て見ぬふりで通り過ぎる。
そこへ割って入ったのは、背を丸めた一人の男だった。
「旦那方、滅相もございません! どうかこの者たちをお見逃しください。代わりに、私のこの秘薬を――宮廷でも珍重される一品を差し上げますから!」
腰を低くし、卑屈な笑みさえ浮かべて懇願する浩然。玲玲は遠巻きにその姿を見守りながら、(浩然様、あんなにまでして……)と、彼の姿に胸を痛めていた。
しかし、門弟の一人が鼻で笑い、親子を足蹴にした。さらには傍観していた玲玲にまで卑劣な目を向け、「そっちの女で手を打ってやってもいい」と手を伸ばそうとした、その瞬間――。
周囲の空気が、鉛のように重く沈み込んだ。
浩然がスッと立ち上がり、玲玲の前に割り込む。丸まっていた背が凛と伸び、纏っていた世俗の気配が霧散した。彼は剣を抜きもしないまま、ただ一歩、石畳を踏みしめる。
――ズン、と地響きが鳴った。
彼の足元から石畳に蜘蛛の巣状の亀裂が走り、周囲の喧騒さえもが遠のいたような錯覚を全員が覚えた。先ほどまでの困り果てた目は、一点の曇りもない「冷徹な刃」の如き鋭さへと変貌している。
「……そこまでにしてもらおう。彼女に触れることは、万死に値する」
門弟たちが動くよりも早く、浩然の神速が炸裂した。鞘に収めたままの剣が、まるで生き物のように敵の懐へ潜り込み、一瞬にして全員の得物を叩き落とす。それは「戦い」というより、絶対的な強者が弱者の存在を「無効化」する、神業に近い剣筋であった。
圧倒的な覇気に圧された男たちは、腰を抜かし、逃げ惑うように去っていく。
静寂が戻ると、浩然はふっと肩の力を抜き、元の気さくな薬売りの顔に戻って玲玲たちを振り返った。
「ああ、よかった! 怪我はありませんか? ……玲玲、驚かせてすまない。なんだか急に、強い風が吹いたみたいで……」
苦し紛れすぎる彼の言葉を聞きながら、玲玲はただ呆然としていた。
(風……? あんな一瞬で、鉄臂城の武芸者たちを……?)
彼の背負う「正体」の重さを、彼女が初めて肌で感じた瞬間であった。
騒ぎを見ていた老人が、震える声で浩然に語りかけた。
「……昔、あんたのように鮮やかに人を助けた御仁がいた。世間じゃ『暁陽剣仙』と呼ばれておって、山から下りては悪を断ち、雲に消えたと言われておる」
「その名は、私もよく存じております。あのような高潔な方が、これほど早く天に召されてしまうなど……天意とは、なんと残酷なことでしょう」
南斗派の次期宗主とまで目されながら、数年前に医仙谷で命を散らしたという天下の英雄。玲玲もその死を惜しむ一人だった。
老人と別れたあと、浩然がどこか他人事のような、探るような声で問いかけた。
「暁陽剣仙は、北斗派にとっては宿敵とも言える南斗の男だろう。北斗派の君が、なぜそれほどまでに彼を悼むんだい?」
「北斗派は『秩序と守護』を重んじる門派です」
玲玲は足を止め、南の方角を見つめた。
「叔父上や兄様が仰っていました。暁陽剣仙は、北斗派との小競り合いにおいても決して無用な殺生はせず、常に『守るための剣』を貫いていたと。『あのような男こそ北斗に欲しかった』と、叔父上たちはその死を深く惜しんでいたのです」
玲玲は静かに目を閉じ、南の空に向かってそっと手を合わせた。
「……暁陽剣仙。貴方は北斗の敵でしたが、貴方が守ろうとした『明日』は、きっと間違っていなかった。願わくば、その魂が穏やかな安らぎの中にありますように」
その横顔を、浩然は重い薬箱を背負い直しながら見つめている。
「……暁陽剣仙は、謎の多い男でしょう。彼が本当は何を考えていたのか、真意など誰にも分かりませんよ」
「いいえ。彼は、今の武林が失ってしまった『光』そのものだったのです」
自嘲気味な彼の言葉を、玲玲はきっぱりと遮った。
目の前でとぼけている男こそが、その「光」のなれの果てであるとは知る由もなく。玲玲は最大限の敬意を込めて、死した英雄を称賛した。
浩然はぐっと奥歯を噛み締めた。
玲玲は、今ここにいる自分ではなく、かつて死んだはずの「自分」を悲しんでくれている。
正体を明かして彼女の祈りに応えたいという衝動と、毒に侵され、もはや光でも何でもない今の無様な姿を見せたくないという絶望。
彼は何も言わず、ただ深く、玲玲から視線を逸らすようにうつむいた。
宿に戻るまでの道中、玲玲の心には静かなさざ波が立っていた。
これまでの自分にとって、浩然の振る舞いはあまりに「いい加減」で、名門の教えに背く不誠実なものに映っていた。
しかし、今なら分かる。彼が卑屈なまでに頭を下げ、でたらめな嘘を並べていたのは、権力に抗えぬ弱者の自尊心を傷つけず、穏便に事を収めるための、彼なりの「祈り」であったのだ。
(私は……『正しさ』を守ることに必死で、その正しさに押し潰されそうな『人』を、見失っていたのかもしれない)
北斗の掲げる大義は、確かに高潔だ。けれど、その光が届かぬ暗がりに蹲る人々を、浩然は「嘘」という名の温かな毛布で包み込み、そっと掬い上げてきたのだ。
前を歩く浩然の、古びた薬箱を背負った背中を見つめる。
(この方のつく嘘は、どんな冷徹な真実よりも温かい。)
玲玲は自らの狭い視野を恥じると同時に、己の信じてきた「正義」をもう一度、自分自身の目で見つめ直す覚悟を決めるのだった。




