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星漢共鳴曲  作者: ふじま
第2章
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第10話 神速と、消えた剣仙

二人はようやく目的の場所に着いた。

武術の里、鉄臂城てっぴじょう。そこかしこで若者たちが拳を突き出す威勢の良い声が響き、夕闇が迫れば雑技師たちが火を吹き、宙を舞う。


力こそがことわりとされるこの街で、一角の路地が冷たく凍りついている。

街で最も勢いのある武館の門弟たちが、みかじめ料を払えぬ貧しい親子を囲んでいた。周囲の武芸者たちも、その武館の背後にある権力を恐れ、見て見ぬふりで通り過ぎる。

そこへ割って入ったのは、背を丸めた一人の男だった。


「旦那方、滅相もございません! どうかこの者たちをお見逃しください。代わりに、私のこの秘薬を――宮廷でも珍重される一品を差し上げますから!」


腰を低くし、卑屈な笑みさえ浮かべて懇願する浩然ハオラン玲玲リンリンは遠巻きにその姿を見守りながら、(浩然様、あんなにまでして……)と、彼の姿に胸を痛めていた。


しかし、門弟の一人が鼻で笑い、親子を足蹴にした。さらには傍観していた玲玲にまで卑劣な目を向け、「そっちの女で手を打ってやってもいい」と手を伸ばそうとした、その瞬間――。


周囲の空気が、鉛のように重く沈み込んだ。

浩然がスッと立ち上がり、玲玲の前に割り込む。丸まっていた背が凛と伸び、纏っていた世俗の気配が霧散した。彼は剣を抜きもしないまま、ただ一歩、石畳を踏みしめる。

――ズン、と地響きが鳴った。

彼の足元から石畳に蜘蛛の巣状の亀裂が走り、周囲の喧騒さえもが遠のいたような錯覚を全員が覚えた。先ほどまでの困り果てた目は、一点の曇りもない「冷徹な刃」の如き鋭さへと変貌している。 


「……そこまでにしてもらおう。彼女に触れることは、万死に値する」 


門弟たちが動くよりも早く、浩然の神速が炸裂した。鞘に収めたままの剣が、まるで生き物のように敵の懐へ潜り込み、一瞬にして全員の得物を叩き落とす。それは「戦い」というより、絶対的な強者が弱者の存在を「無効化」する、神業に近い剣筋であった。


圧倒的な覇気に圧された男たちは、腰を抜かし、逃げ惑うように去っていく。

静寂が戻ると、浩然はふっと肩の力を抜き、元の気さくな薬売りの顔に戻って玲玲たちを振り返った。


「ああ、よかった! 怪我はありませんか? ……玲玲、驚かせてすまない。なんだか急に、強い風が吹いたみたいで……」


苦し紛れすぎる彼の言葉を聞きながら、玲玲はただ呆然としていた。


(風……? あんな一瞬で、鉄臂城の武芸者たちを……?)


彼の背負う「正体」の重さを、彼女が初めて肌で感じた瞬間であった。



騒ぎを見ていた老人が、震える声で浩然に語りかけた。


「……昔、あんたのように鮮やかに人を助けた御仁ごじんがいた。世間じゃ『暁陽剣仙ぎょうようけんせん』と呼ばれておって、山から下りては悪を断ち、雲に消えたと言われておる」


「その名は、私もよく存じております。あのような高潔な方が、これほど早く天に召されてしまうなど……天意とは、なんと残酷なことでしょう」


南斗派の次期宗主とまで目されながら、数年前に医仙谷いせんごくで命を散らしたという天下の英雄。玲玲もその死を惜しむ一人だった。


老人と別れたあと、浩然がどこか他人事のような、探るような声で問いかけた。


「暁陽剣仙は、北斗派にとっては宿敵とも言える南斗の男だろう。北斗派の君が、なぜそれほどまでに彼を悼むんだい?」


「北斗派は『秩序と守護』を重んじる門派です」


玲玲は足を止め、南の方角を見つめた。


「叔父上や兄様が仰っていました。暁陽剣仙は、北斗派との小競り合いにおいても決して無用な殺生はせず、常に『守るための剣』を貫いていたと。『あのような男こそ北斗に欲しかった』と、叔父上たちはその死を深く惜しんでいたのです」


玲玲は静かに目を閉じ、南の空に向かってそっと手を合わせた。


「……暁陽剣仙。貴方は北斗の敵でしたが、貴方が守ろうとした『明日』は、きっと間違っていなかった。願わくば、その魂が穏やかな安らぎの中にありますように」


その横顔を、浩然は重い薬箱を背負い直しながら見つめている。


「……暁陽剣仙は、謎の多い男でしょう。彼が本当は何を考えていたのか、真意など誰にも分かりませんよ」

「いいえ。彼は、今の武林ぶりんが失ってしまった『光』そのものだったのです」


自嘲気味な彼の言葉を、玲玲はきっぱりと遮った。

目の前でとぼけている男こそが、その「光」のなれの果てであるとは知る由もなく。玲玲は最大限の敬意を込めて、死した英雄を称賛した。


浩然はぐっと奥歯を噛み締めた。

玲玲は、今ここにいる自分ではなく、かつて死んだはずの「自分」を悲しんでくれている。

正体を明かして彼女の祈りに応えたいという衝動と、毒に侵され、もはや光でも何でもない今の無様な姿を見せたくないという絶望。

彼は何も言わず、ただ深く、玲玲から視線を逸らすようにうつむいた。



宿に戻るまでの道中、玲玲の心には静かなさざ波が立っていた。

これまでの自分にとって、浩然の振る舞いはあまりに「いい加減」で、名門の教えに背く不誠実なものに映っていた。

しかし、今なら分かる。彼が卑屈なまでに頭を下げ、でたらめな嘘を並べていたのは、権力に抗えぬ弱者の自尊心を傷つけず、穏便に事を収めるための、彼なりの「祈り」であったのだ。


(私は……『正しさ』を守ることに必死で、その正しさに押し潰されそうな『人』を、見失っていたのかもしれない)


北斗の掲げる大義は、確かに高潔だ。けれど、その光が届かぬ暗がりに蹲る人々を、浩然は「嘘」という名の温かな毛布で包み込み、そっと掬い上げてきたのだ。

前を歩く浩然の、古びた薬箱を背負った背中を見つめる。


(この方のつく嘘は、どんな冷徹な真実よりも温かい。)


玲玲は自らの狭い視野を恥じると同時に、己の信じてきた「正義」をもう一度、自分自身の目で見つめ直す覚悟を決めるのだった。

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