第7話 蜜あふれる棗
浩然という男は、呆れるほどにお人好しが過ぎた。
紅棗関に入って半刻も経たぬうちに、荷に喘ぐ老婆がいれば背を貸し、腰を痛めた老人がいれば代わって薪を割り、転んで泣きじゃくる子供がいれば傷口を清めて秘伝の薬を惜しみなく塗ってやる。ついには道端で震える困窮者に、商売道具であるはずの薬を無償で与えてしまう始末だった。
「浩然様、いくらなんでもお人好しがすぎませんか?」
心配を通り越して呆れる玲玲をよそに、浩然は「ちょっとごめん」とまた誰かの元へ走っていく。ようやく戻ってきた彼は、額の汗を拭いながら屈託なく笑った。
「待たせたな。さあ、約束の棗を買いに行こうか」
二人がようやく露店で棗を手にした、その時だった。
「待て! 小僧! 泥棒だっ!」
男の怒号が市場の喧騒を切り裂く。振り返った浩然の目の前で、ぼろを纏った少年が躓き、転んだ。その手には、痩せこけた体には不釣り合いなほど立派な財布が握られている。
怯えた目で見上げる少年の腕を、浩然はあろうことか優しく助け起こした。
「大丈夫かい。……少し、ここで待っていなさい」
浩然は、肩で息をして走ってきた恰幅の良い商人の前に立ちはだかった。
「その小僧は私の財布を盗んだのだ! さあ、身柄を引き渡してもらおう!」
だが、浩然は少年を背に庇ったまま動かない。玲玲は毅然とした表情で浩然に進言した。
「浩然様。盗みは法を乱す大悪です。どんな理由があろうとも、まずは役所へ突き出し、罪を償わせるのが真の道理。甘やかしはこの子の将来を奪うことと同じですわ!」
凛として少年の罪を断ずる玲玲。その瞳には、一切の私情を排した「法」への忠誠があった。だが、浩然は少年の細い腕を掴んだまま、ひらひらと手を振って彼女を宥めた。
「まあまあ。役所に突き出せば、この子は一生『泥棒』の烙印を押されて生きていくことになる。それはあまりに酷だ。……商人さん、これで手を打ってくれないか」
浩然は懐から、金塊にも匹敵する希少な霊薬を取り出し、少年の代わりに商人に手渡して弁償を済ませてしまった。さらに、呆然とする少年に手持ちの饅頭を押し付ける。
「お腹が膨れたら、商人さんのところで一日働いて、ちゃんとお詫びをしてくるんだよ。いいかい?」
浩然が笑って少年を逃がすと、玲玲は怒りに肩を震わせた。
「ご自分で尻拭いをして、罪人を野放しにするなど……それは断じて正義ではありません!」
詰め寄る玲玲に対し、浩然はどこまでも飄々とした態度で、空になった自分の巾着を弄びながら呟いた。
「――残念ながら、正義じゃあお腹は膨らまないからなぁ」
その言葉には、清廉な理想だけでは救いきれない、世俗の泥にまみれた彼なりの「救済」が込められていた。玲玲はその背中を見つめながら、正論だけでは言い返せない敗北感を覚える。
「……それでも、道理が通らぬことは……」
なおも食い下がろうとした玲玲だったが、その言葉は最後まで続かなかった。
――ぐぅ、と。
静まり返った道端に、情けないほど可愛らしい音が響き渡る。
玲玲は一瞬で顔を真っ赤に染め、自らの腹部を隠すように抱え込んだ。
「あはは、ほら。正義の味方だって、お腹は空くものだろう?」
浩然は悪戯っぽく笑うと、まだ微かな温もりを帯びた饅頭と、先ほど買ったばかりの真っ赤な棗を差し出した。
「道理を説くのは、これを食べてからにしよう。空腹は人を頑固にさせてしまうからね」
差し出された棗は蜜が溢れんばかりに色づき、饅頭からは甘い湯気が立ち昇っている。
「……卑怯ですわ」
玲玲は恨めしそうに彼を睨んだが、結局はその誘惑に勝てず、差し出された温もりを両手で受け取った。
頬張った一口が、頑なだった彼女の心を少しずつ解かしていく。
浩然はその様子を満足げに眺めながら、自分自身の空腹などまるで感じないかのように、また軽やかな足取りで歩き始めるのであった。




