第61話 至宝の行方
激闘が幕を閉じ、血の匂いが漂う戦場に、ようやく穏やかな風が吹き抜けた。
満身創痍で地面に転がっていた星宇を、烈華がぶっきらぼうに、けれど確かな温もりを込めて抱きかかえる。彼女は真っ赤に染まった彼の拳を見つめ、柄にもなく小さな声で呟いた。
「……よくやった、星。格好良かったぞ」
その一言を聞いた瞬間、死に体だったはずの星宇が跳ね上がるように身を起こし、目を見開く。
「れっ、烈華ちゃん!? 今、なんて!? もう一度言って! 今度こそ脳内に、いや魂の奥底までしっかり刻みつけるから!」
いつもの軽薄さを全開にして甘える星宇に、烈華の頬が瞬時に朱に染まった。
「……っ、調子に乗るな!」
「あだっ!?」
結局、いつものように鋭い拳が星宇の頭に落ちる。けれど、悶絶しながら笑う星宇と、それを呆れ顔で見守る烈華の間には、以前よりもずっと深く、揺るぎない絆が結ばれていた。
一方、鳳嵐は喧騒から少し離れた山門の跡に佇んでいた。
彼は乱れた衣服を整え、かつて恋慕した玲玲と、彼女と共に生きる道を選んだ浩然の背中を、遠くから静かに見つめていた。
その横顔に、かつての傲慢な貴公子の面影はない。
彼は腰の剣に手を添えると、駆け寄ってきた北斗派の門弟たちに冷静な口調で指示を出し始めた。負傷者の救護、逃走した教徒の追跡、そして門派の立て直し……。
「鳳嵐様、これからは……」
門弟の問いに、鳳嵐は一度だけ空を仰ぎ、わずかに口角を上げた。
「決まっている。私は北斗の軍師だ。この一門を立て直す……と言いたいところだが」
言いかけて、彼は小さく顔をしかめた。脇腹の傷が、今さらながらに熱い疼きを上げている。玄天機の猛攻から門弟たちを庇い、己の限界を超えて指揮を執り続けていた代償は小さくなかった。
「鳳嵐様! お怪我が……。大仕事の前に、まずはそのお体を回復させなければ」
駆け寄った門弟が、心配そうに彼を支える。鳳嵐は「ふん、この程度の傷、私の計算の内だ」と強がってみせたが、その足取りはどこか危うい。
「……鳳嵐様。傷を癒やすなら、私の故郷である『医仙谷』にある秘湯へ行かれませんか? どんな深手も一晩で治ると言われる、素晴らしい名湯があるのです」
「……医仙谷?」
鳳嵐はその名を聞き返し、怪訝そうに眉を寄せた。
「いいだろう。立て直しには万全の体が必要だ。……すべてに一段落ついたら、少しばかり羽を伸ばすとしよう」
彼はそう言って、痛む脇腹を庇いながらも、いつものように凛とした足取りで歩き出した。
まずは散り散りになった門弟たちをまとめ、混乱を収束させねばならない。それが終わるまでは、倒れることすら自分に許さないのが、鳳嵐という男の矜持であった。
彼は再建に沸く紫霄山を背に、ゆっくりと、けれど確かな一歩を踏み出した。
その背中には、重荷を下ろした者だけがまとえる、どこか晴れやかな空気が漂っていた。
この後、彼が訪れたその地で、人生を大きく変える「運命の出会い」を果たすことになるとは、今の彼はまだ知る由もない。
――だが、それはまた、別のお話。
◇
戦いは終わり、紫霄山に降り積もっていた数十年の恩讐は、朝日に溶ける霧のように消え去っていった。
かつては互いに背を向け、刃を交えてきた北斗と南斗。しかし、浩然と玲玲が示した「共鳴」の光は、門派という壁を越え、両派の門弟たちの心に一つの真実を刻んでいた。
「……もう、争う理由はどこにもないはずだ」
誰からともなく武器が収められ、負傷した者を敵味方の区別なく助け合う光景が広がる。北斗の剛毅さと南斗の慈愛が、ついに憎しみではなく「調和」のために手を取り合ったのだ。
それは、かつて玄天機たちが夢見ながらも、あと一歩で届かなかった理想の結実であった。
二つの門派は今、互いを否定し合うことをやめ、共に江湖を照らし出す「双星」として、新たな和解の道を歩み始めたのである。
◇
玄天機という巨悪が去った後も、武林の欲望が消え去ることはなかった。
南北合一の至宝『星漢共鳴曲』——それが完成したという噂は瞬く間に広がり、かつて「正義」を標榜していた門派までもが、その「絶対的な力」を求めて牙を剥き始めたのだ。
「邪教の再来を防ぐため、秘本は我ら公の機関が管理すべきだ」
浩然と玲玲を「独占者」と批判し、包囲網を敷く諸派。だが、二人は力で彼らを屈服させることはしなかった。
二人が取ったのは、これ以上なく風流な「琴譜の概念そのものを変える」という対策であった。
玲玲はその旋律を、さらに複雑で優美な琵琶の大曲へと昇華させた。浩然はその指運びの中に、絶妙な内力の循環を組み込む。
こうして『星漢共鳴曲』は新たな琴譜に書き換えられた。
この曲は、正しい心構えと、南北両派の精神を真に理解した者にしか奥義が伝わらない。欲に目の眩んだ者がどれほど聴こうとも、ただの「難解で美しい名曲」にしか聞こえなかったのである。
また、鳳嵐は軍師としての知略を尽くし、朝廷や諸門派を巻き込んだ「武林和議」を締結させる。
「『星漢共鳴曲』は亡き先代たちの固き友情の証にして、遺されたる私物である。これを強奪せんとする者は、全武林の義理を欠き、全江湖を敵に回すものと見なす!」
論理で野心家たちを黙らせる傍ら、鳳嵐は裏で、修練すると酷い腹痛に襲われるという「欠陥入りの偽写本」を密かに市場へ流し、奪い合っていた者たちを滑稽な結末へと導いた。




