第60話 呪いを祝福に、並び立つ双星
玄天機は見てしまった。
かつて自分が信じ、そして自ら踏みにじったはずの、眩いばかりの「理想の光」を。
「あ、ああ……これは……」
鉄壁の支配者であった男の心に、一瞬の、けれど致命的な「迷い」が生じる。それは、彼が二十五年間積み上げてきた絶望の城壁に生じた、唯一にして最大の隙であった。
その時、浩然の体内では奇跡が起きていた。
玲玲の旋律に導かれ、逆流していた気流が劇的に整い、体を蝕んでいた猛毒が、黄金の光に溶けて霧散していく。
浩然はもはや、血を吐きながら這いずる薬売りではない。
その瞳には澄み渡る剣気が宿り、全身から溢れ出す内力は廟の空気を震わせる。それは、伝説に謳われた「暁陽剣仙」の再臨であった。
「玄天機……。おまえが捨てた光、私たちが繋いでみせる!」
本来の、いや、それ以上の高みへと至った浩然が、北斗派の刀法と南斗派の剣法を一つに融合させた、前人未到の合技を放つ。
玲玲の奏でる『星漢共鳴曲』の最高潮とともに、黄金の閃光が玄天機の漆黒を真っ向から貫いた。
二人の合技は、玄天機を縛り続けていた数十年分の絶望を打ち砕き、江湖を覆っていた憎しみの連鎖に終止符を打つ。
光に包まれ、膝をついた玄天機の瞳から、禍々しい闇が消えていく。
その瞳に宿ったのは、かつての「道教の至宝」と呼ばれていた頃の、澄んだ琥珀色の輝きであった。
彼は薄れゆく意識の中で、自分を包む温かな旋律に耳を傾け、静かに微笑んだ。
「……美しい……旋律だな……」
最期の呟きと共に、男は静かに事切れた。その顔は、長きにわたる悪夢からようやく解放されたかのように、穏やかな安らぎに満ちていた。
◇
絶対的な支配者であった教主・玄天機の死は、紫微教という巨大な虚像を瞬時に崩壊させた。主を失った教徒たちの反応は、あまりに様々であった。
「天は潰えた!」と絶望し、その場で自らの剣に伏して教主に殉じる狂信者たち。
「もはやこれまで」と闇に紛れ、我先にと山を下り、江湖の彼方へ逃走を計る卑怯者たち。
そして、教主の呪縛から解かれたかのように呆然と武器を落とし、北斗・南斗両派の前に膝をついて降伏を請う者たち。
かつて天下を闇に染めようとした強大な教団は、たった一人の「星」が消えたことで、糸の切れた人形のように無残に、そして静かに霧散していった。
◇
激闘の果て、紫霄山の頂に一瞬の静寂が訪れた。
漆黒の闇をまとっていた玄天機の姿は消え、そこにはただ、夜明けを待つ静かな空気が流れている。
「玲玲……! 怪我はないか!?」
浩然は何よりも先に、愛する人の無事を確認した。彼女の指先に、その身に傷一つないことを確かめた瞬間、張り詰めていた緊張が解け、彼はその場に力なく倒れ込む。
だが、その表情はこれまでの長い旅路の中で、最も穏やかであった。
浩然は己の手をかざし、内側から溢れる力強い脈動を感じる。死の宣告であった右腕の黒い筋は、跡形もなく消え去っていた。
(母さん。僕はもう、一人じゃない。守るべき人と、僕を守ってくれる人を見つけたんだ……)
浩然は玲玲の柔らかな手を握りしめ、少し照れくさそうに笑った。
かつて『星漢共鳴曲』を奏でた者たちは、強大な力を得る代償として心を削り、愛する者との別れを宿命として受け入れてきた。
しかし、浩然が命を懸けて毒に抗い、玲玲が彼の命を繋ぎ止めるためにすべてを懸けて奏でたとき、その旋律は破壊の業を越え、「守る力」へと変質したのだ。
「……不吉な予言は、どうやら外れたようだな。私は今もこうして、君の隣にいる」
浩然の言葉に、玲玲は慈愛に満ちた微笑みを返し、彼の手をぎゅっと握り返した。かつて、この手を失うことを恐れて袖を掴んでいたあの日の震えは、もうどこにもない。
「いいえ、浩然様。予言が外れたのではありませんわ。北斗と南斗、二人の心が真に重なったとき……呪いさえも祝福に変わったのです。別れの予言は、私たちが共に明日を切り拓くと決めた瞬間に、その役目を終えたのでしょう」
紫霄山の天頂に、朝日が差し込む。
それは、百年以上続いた「影」を払い、二人が歩む新たな道を照らす希望の光であった。
北斗と南斗、二つの星は今、別離の運命を乗り越え、同じ空で永遠に並び立つ輝きを手に入れたのだ。
◇
絶望を越え、想いが通じ合った後も、浩然の「お節介なお人好し」は治る気配がなかった。
「……瓦礫だらけになってしまったな。これからは、君の靴が汚れないように、道にある石を全部どけてから歩くことにしよう」
「愛してる」という言葉の代わりに、浩然は真顔でそんなことを口にする。彼らしい、あまりに献身的で、けれどひどく不器用な愛の誓いだった。
そんな彼に対し、玲玲はこれまでに読んできた恋物語の知識を総動員して、ビシッと指を突きつける。
「浩然様、違います! ここは朝日を背に、力強く私を抱擁する場面ですわ!」
「えっ……い、今しなきゃ駄目か?」
「今でなくていつするのです!」
困惑して頬をかく浩然だったが、玲玲の期待に満ちた瞳に抗えるはずもない。彼は観念したように苦笑すると、おずおずと、けれど壊れ物を扱うような手つきで彼女を優しく抱き寄せた。
一度、恥ずかしさに耐えかねて離れかけた二人だったが、どちらからともなく再び見つめ合う。
そこにはもう、「救う側」と「救われる側」の壁はなかった。
今度は迷いなく、お互いの存在を確かめるように強く抱きしめ合い、二人の唇が重なる。
紫霄山に差し込む朝日は、かつての呪いを焼き払い、これから二人が歩んでいく「石一つない道」を黄金色に照らし出していた。




