第55話 南斗の激、不動の星
数年前、浩然が武功を失った、あの日。
徐峰は、門派内の「緊急会議」という名の足止めを喰らっていた。彼が駆けつけた時には、すべてが終わった後であった。
そこには、猛毒に侵され、血の気の引いた顔でなお穏やかに微笑む浩然と、彼がその身を挺して守り抜いた、無傷の少女の姿があった。
この事件は、南斗派を真っ二つに割る激論を巻き起こす。
「将来の宗主候補ともあろう者が、市井の娘一人のために武功を失うとは。愚か極まりない!南斗の力を浪費した失態だ」
冷酷な保守派の罵倒に対し、浩然は、静かに、だが凛として言い放った。
「私は力を失いました。……ですが、弱きを救うという南斗の信念を、一度たりとも汚してはおりません。ゆえに、後悔など微塵もありません」
その言葉を聞いた瞬間、徐峰の胸には、息子へのこの上ない誇りと、喉を焼くような自責の念が同時に突き上げた。
かつて自分は、門派のしがらみに負け、愛する沐陽の手を離した。しかし我が子は、門派の誇りそのものである武功を捨ててまで、信念を貫き通したのだ。
「浩然……。お前は私よりも、ずっと立派な南斗の男だ」
病床で眠る息子の手を握りしめ、徐峰は独りごちた。
「だが、なぜ天は……これほどまでに正しき心を持つ者に、これほど残酷な罰を与えるというのだ」
浩然はその後、修行のやり直しではなく、下山を願い出た。徐峰は、あの日、沐陽を追えなかった自らの過ちを繰り返さぬよう、断腸の思いでそれを許した。
「行け、浩然。……お前の信じる正義を、その目で見届けてこい」
小さくなった浩然の背中が、かつての沐陽の面影と重なり、山門の霧の向こうへ消えていく。
一人残された徐峰の頬を、静かに涙が伝った。宗主という重責を脱ぎ捨てた、一人の「父親」としての、慟哭の涙であった。
◇
「紫微教、そして玄天機の力はもはや我ら一門で抗えるほど微弱ではありません。その魔手は、北斗・南斗の双方を滅ぼさんと迫っています。玄天機という魔物を討つために……今こそ宿命の鎖を断ち、両派が手を取り合うべきときです」
徐峰は、目の前に跪く青年の姿を、二十五年前の光景に重ねていた。
浩然の顔を見るたび、胸の奥を鋭い刃で削られるような痛みが走る。
その真っ直ぐな眼差し、意志を秘めた口元——それは、かつて自らの臆病さと門派の重圧ゆえに、救うことも、追いかけることもできなかった最愛の女性の生き写しだった。
「……北斗と、手を合わせろと言うのか」
徐峰が発した声は、焚かれた香の煙のように低く、揺れていた。
握りしめた碧玉の飾りが、窓から差し込む光を弾き、鈍く輝く。それは、彼の姉が、そして沐陽が守ろうとした、南北融和の夢の残骸だ。
かつて自分は、門派を守るという大義の名の下に、個人の情を切り捨てた。その結果が、二十年以上にわたる孤独と、愛する者を野垂れ死にさせたという消えない悔恨だった。
「宗主……いえ、師父。私は旅の道中、北斗の娘と共に歩み、彼らの真実を見ました。彼らもまた、我らと同じように、守るべき者のために血を流し、過去の呪縛に苦しんでいるのです」
浩然の声が、静まり返った部屋に響く。
「北斗と南斗……師父の姉上が守ろうとしたのは、門派の面目ではありません。名もなき民が笑って暮らせる、『誰かの明日』だったはずです」
「誰かの、明日……」
徐峰は、震える指先で碧玉に触れた。その冷たさが、凍りついていた彼の時間を溶かしていく。
玄天機という闇が武林を飲み込もうとしている今、再び「門派」という殻に閉じこもれば、自分はまた、大切なものを失うことになる。
浩然は深く頭を下げ、魂を振り絞るような声で訴えた。
「お願いです。あと一度だけ……あと一度だけでいい。私を、そして、北斗派を信じてください。このままでは、芽衣様が命を懸けて繋いだ光が永遠に消えてしまいます」
沈黙が場を支配した。香の煙が、徐峰の顔を白く覆う。
だが、その煙の向こうで、徐峰の瞳はかつてないほどの決意を宿していた。
彼はゆっくりと立ち上がり、机の上に置かれていた南斗宗主の証たる印を掴んだ。
「……浩然。お前はかつて、医仙谷で武功を捨て、南斗の信念を証明した。ならば、今度は私が証明する番だ。宗主としてではなく、一人の男として……あの時果たせなかった約束を、今、お前に託そう」
徐峰は部屋の窓を押し開けた。六星岳の冷涼な風が吹き込み、滞っていた空気を一気に一掃する。
「南斗全門弟に通達せよ! 我らはこれより、紫霄山にて北斗派と合流する。数十年続いた恩讐を越え、紫微教の闇を討つ。……これこそが、我が南斗派が進むべき、唯一の道である!」
その宣言は、山門を超え、六星岳の全土に響き渡った。
浩然はゆっくりと顔を上げた。
目の前で風を背負って立つ男の背中は、かつて母が語っていた通り、揺るぎない「大きな山」のように高く、迷いなくそびえ立っていた。
ふとした仕草や、厳格な言葉の裏に隠された不器用な温かさ。それらに触れるたび、浩然の胸の奥には、正体の知れない熱い塊が込み上げてくる。
(……ああ、やはりそうなのか。母さんが、最期までその名を口にせずとも慕い続けた人は……)
確かな証拠があるわけではない。師父が何かを語ったわけでもない。
けれど、今この瞬間、同じ絶望を乗り越えようとしている二人の間に流れる空気は、師弟という言葉だけでは説明がつかないほど、深く、濃く、繋がっているように思えた。
浩然は、その「大きな山」の背中に向かって、深く、静かに、一礼した。それは師父への敬意であり、そして、名乗ることも叶わぬ父への、初めての甘えでもあった。
宿命の歯車が、ついに力強く回り始めた。
北斗と南斗、二つの流れが一つに重なり、巨大な奔流となって、紫霄山へと押し寄せていく。
◇
紫霄山の頂に鎮座する廟。
香炉から立ち上る紫の煙が、室内に幻想的かつ禍々しい影を落としていた。
御帳の向こう、深奥の座に静かに鎮座する教主・玄天機の姿を、跪く十二宮の者たちが窺い知ることはできない。
沈黙を支配する玄天機の脳裏には、三十年前の、眩いばかりの記憶が蘇っていた。
かつて、そこには三つの星があった。
北斗派の誇り高き大師兄・飛龍。
南斗派のたおやかな才女・芽衣。
そして、「道教の至宝」とまで謳われた若き玄天。
門派の垣根を超え、理想を語り合ったあの時間は、彼にとって人生のすべてだった。
(……北と南が合わされば、戦乱のない理想郷が作れる。本気でそう信じていたのだ)
だが、その夢は、心血を注いだ和解の儀式は真っ赤な鮮血に染まった。
両派の強硬派が仕掛けた罠により、凄惨な同士討ちが始まったのだ。悲鳴と怒号の中、玄天が目にしたのは、最も信頼した友の胸を、南斗の剣が貫く瞬間であった。
さらに、動揺した玄天の隙を突こうとした北斗の刃を、芽衣がその身を挺して受け止める。
崖へと追い詰められた二人の、絶望の逃避行。
玄天の腕の中で、事切れる直前の彼女は、最期の力を振り絞って微笑んだ。
「……あなたと、六星岳で星空を見たかったわ。……玄天、どうか、希望を捨てないで……」
それが、彼の世界が崩壊した音だった。
(……ああ、そうか。光を繋ごうとするから、影が生まれる。この世に希望などという紛い物があるから、人は裏切り、殺し合うのだ)
暗い情念が、彼の魂を漆黒に染め上げる。
(人間という愚かな星は、どれだけ導いても正しく並ぶことはない。ならば、一度すべてを消し去り、私が唯一の紫微星となって、新たな天を創り直すまで)
玄天機は、ゆっくりと目を開いた。かつての慈愛に満ちた瞳はもはやなく、そこにあるのは、万物を支配せんとする冷徹な理だけだ。
「北斗と南斗……消え損ねた残光が、揃ってこの紫霄山へ向かっているというのか」
御帳の向こうで、彼は嘲笑うように呟いた。
「来るがいい。すべての星を消し去り、我ら紫微が唯一の不動の星となる。そして、この歪んだ世の理を正してやろう」




