第56話 背中を預ける守護者たち
断崖が牙のように切り立つ紫微教の聖域、紫霄山。
その険しき山道を、北斗の誇りを胸に刻んだ武芸者たちが、一筋の閃光となって突き進む。
立ち塞がるのは、教主・玄天機の命を絶対の理とする精鋭「十二宮」。黒装束に身を包んだ彼らは、暗器と毒を操り、侵入者を一人残らず闇に葬る死神の如き刺客であった。
激しい乱戦が繰り広げられる中、星宇は手にした刀を鋭く一閃させた。
これまでの道中で見せていた、敵を煙に巻くような軽薄な笑みは、今の彼には微塵もない。逆巻く風の中で翻る衣の音さえも、殺気となって周囲を圧する。
「……遊びは終わりだ」
低く、地を這うような冷徹な声が響いた。
星宇の瞳には相手を射抜くような鋭利な光が宿っている。彼は抜き放った刀の切っ先を十二宮の首元へぴたりと突きつけ、感情を排した無機質な声で続けた。
「これ以上粘るなら、その仮面ごと顔を叩き切る。……次は、外さないよ」
その圧倒的な威圧感に、死を恐れぬはずの刺客たちが一瞬、確かに退いた。
霧の向こう、不気味な紫の光を放つ廟が、いよいよその姿を現そうとしていた。
◇
紫微教の総本山、紫霄山の頂に建つ廟。
その重厚な扉を蹴破り、皓月、星宇、北斗の精鋭たちが足を踏み入れる。
静寂が支配する堂内の奥、不気味に揺れる紫の御帳が、音もなく左右に割れた。
そこから姿を現したのは、かつての「道教の至宝」とは似ても似つかぬ、禍々しき覇気を纏った男――玄天機であった。
彼はその身に、かつて愛し、そして憎んだ二つの門派の精髄を、最悪の形で歪めて取り入れていた。
背負うのは、北斗派の剛を極めた漆黒の大刀。そして指先には、南斗の医術を転じ、経絡を逆流させて内側から肉体を破壊する「不可視の毒気」をまとっている。
「来たか。……塵芥のように消え損ねた、過去の残光どもが」
玄天機が軽く掌を振るっただけで、大気を震わせる衝撃波が一行を襲う。
宗主・皓月が真っ先に斬り込むが、玄天機の大刀がそれを容易く弾き返した。直後、玄天機の指先から放たれた不可視の気が、皓月の急所を正確に射抜こうと奔る。
「宗主!」
門弟が叫ぶが、間に合わない。
絶体絶命の瞬間、その銀光を真っ向から受け止めたのは、飛び込んだ星宇の刀であった。
「……ぐ、っ……!」
星宇の肩口から鮮血が舞う。いつもの軽薄な笑みは消え、その瞳には、一門の守護者としての苛烈な覚悟が宿っていた。
「星宇、引け! 無茶だ!」
皓月の制止を、星宇は静かに、だが力強く遮る。
彼は口元の血を手の甲で拭うと、背中越しに、普段は見せない真剣な眼差しで言い放った。
「叔父上に何かあったら……烈華が泣いちゃうでしょ。彼女を二度と泣かせないって決めてるんです。……ここは、私が食い止める」
その背中は、愛する者を守り抜く一人の男のそれであった。
しかし、玄天機の力は、彼らの想像を絶していた。
「ふん……。愛だの約束だの、反吐が出る」
玄天機が冷たく言い放つと同時に、床に刻まれていた紫微の紋章が怪しく発光した。それは戦いの最中に、彼らが無意識のうちに踏まされていた卑劣な罠――「星縛の陣」だ。
足元から伸びる紫の鎖が、星宇たちの四肢を縛り上げ、内功を強制的に遮断する。
「なっ……力が……!」
星宇たちは皆、自由を奪われ膝をつく。
暗闇に包まれた道観の中で、玄天機の高笑いと、彼らの絶望的な呻きが重なり合っていた。
彼らの四肢を縛り上げる紫の鎖が、その内功を食い破ろうとした、その時であった。
廟の天井を突き破り、薄青の衣が舞い降りる。
「星! 死んだら承知しない!」
烈華であった。
彼女は断鉄を一閃させ、星宇を拘束していた不可視の鎖を強引に断ち切る。凄まじい衝撃波と共に着地した彼女の瞳は、怒りと、そして隠しきれない星宇への案じで燃えていた。
「……やれやれ。死ぬより怖いお仕置きが待ってそうだから、頑張るしかないか」
星宇は肩の傷を押さえながら、不敵に口角を上げた。その瞳からいつもの揺らぎが消え、真の実力が解き放たれる。全身から溢れ出す濃密な気が、周囲の空気を震わせた。
星宇の、これまでにない真剣な眼差し。それと真っ向からぶつかった烈華は、わずかに頬を染めると、照れ隠しのように鋭い視線を逸らした。
「……背中は、預けた」
「ああ、守り抜いてやる」
二人は背中を預け合い、押し寄せる十二宮の刺客たちを迎え撃つ。
烈華の剣は、もはや単なる「武」ではなかった。
彼女が剣を振るうたび、北斗の門弟たちの胸には熱い勇気が宿り、逆に敵である紫微教徒たちは、その圧倒的な覇気に呑まれ、足がすくみ、剣を握る手が震えだす。
戦場全体の空気を支配し、味方を鼓舞して敵の戦意を挫く——それは、彼女がたどり着いた「真の守護者」の境地であった。
烈華がそこに立つだけで、もはや北斗派に退く者はいない。彼女の剣は、そこに立つだけで誰も死なせない「不落の壁」へと昇華していた。
だが、玄天機は冷たく目を細める。
「不落、か。ならば、その壁ごと圧し潰すまでよ」
玄天機が合図を送ると、影の中から、これまで以上の数の刺客が音もなく湧き出してきた。
敵はあまりに強く、そして数は底知れない。
星宇と烈華の奮闘をあざ笑うかのように、紫霄山の闇はさらに深く、北斗派を飲み込もうとしていた。




