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星漢共鳴曲  作者: ふじま
第5章
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第54話 六星岳の親子

一方、浩然ハオランは数年ぶりに南斗派の総本山、六星岳ろくせいがくの土を踏んでいた。

険しい断崖を縫うように続く山道は、かつて彼が幼い足を血に染めて修練に励んだ場所だ。雲海を眼下に望む山門をくぐると、静寂を破るように若い武芸者たちの声が響いた。


「浩然兄さん!」

「浩然兄さんが帰ってきたぞ!」


門弟たちが次々に駆け寄ってくる。誰にでも分け隔てなく接し、泥をすすってでも弟弟子たちを守ってきた彼の人望は、数年の空白など容易に埋めてしまった。


その人だかりを割るようにして、一人の若者が颯爽と姿を現した。鋭い身のこなし、淀みのない足取り。ひと目でただ者ではないと知れるその青年は、感極まった面持ちで叫んだ。


大師兄だいしきょう!お身体は大丈夫なのですか!」


「よせ。……今はお前が大師兄だろう、汪航ワン・ハン


浩然は苦笑し、自分を追い越すほどに逞しくなった若者の肩に、ぽんと手を置いた。その手の温もりに、若き大師兄は少年のように目を潤ませる。


「宗主にお目通りしたい。……伝えるべきことがあるんだ」



通された当主の部屋は、以前と何一つ変わっていなかった。


南斗派宗主・葉徐峰イエ・シューフォン。彼は常に、古木の如く静かに佇んでいる。

部屋には細く、白い煙を上げる香が焚かれていた。それは高ぶる感情を鎮め、内功の乱れを抑えるための特殊な香だ。

徐峰は表情こそ乏しいが、その身には凪いだ海のような穏やかな空気をまとっている。


だが、浩然がその前に跪いたとき、血の繋がりは残酷なまでに明白となった。


二人が同時に、考え事をする際、無意識に左の眉を微かに寄せる癖。そして何より、人を射抜くような鋭さを持ちながら、その奥に深い哀愁を湛えた「三白眼」の目つき。それは葉家の血筋のみが持つ、静かな熱を孕んだ瞳だった。


「……戻ったか、浩然」 


徐峰の声は低く、枯れ葉が擦れ合うような響きを持っていた。感情を漏らさぬよう香の煙に身を隠しているが、その指先が、わずかに机上の書に力を込めたのを浩然は見逃さなかった。


「はい。……宗主。今日はお耳に入れたき儀がございます」 


南斗の頂に立つ男と、そこを去った放浪の剣客。二人の間に流れる時間は、焚かれた香の煙のように、ゆっくりと、しかし確実に絡み合い始める。


「この春から、北斗派の面々と行を共にしていたそうだな。……聞けば、北斗の令嬢を窮地から救ったとか」


徐峰が静かに問いかける。感情を排したその声は、香の煙と共に部屋の隅々まで染み渡るようだった。浩然はわずかに視線を落とし、自嘲気味に口角を上げた。


「宗主の耳を逃れることなど、この世にはそう多くないようですね」 


浩然は語り始めた。北斗派が謎の集団に襲撃された出来事から、旅の道すがら各地で目にした、毒を用いて民を惑わす怪しげな道士たちの暗躍。そして、幾度となく命を狙ってきた刺客や「十二宮」の存在。

最後に、紫微教主・玄天機と相まみえ、彼が語ったあまりにも禍々しい野望について言葉を尽くした。


玄天機シュエンティエンジー……」


その名が浩然の口から漏れた瞬間、徐峰の指先が止まった。

彼は無言で、手元にあった一つの包みを開いた。そこにあったのは、数日前に彼の卓へ密かに置かれていたもの――。

それは、かつて徐峰の姉が生前、片時も離さず身に着けていた碧玉の飾りであった。

そしてその傍らには、北斗派に届けられたものと同じく、不吉な紫微の紋が刻まれた書状が添えられていた。


(玄天機……。かつて道教の至宝と謳われ、我が姉と浅からぬ縁のあったあの男か……)


徐峰の瞳に、香の煙越しでも隠しきれぬほどの鋭い光が宿る。姉が命を懸けて守ろうとしたもの、そしてあの日の惨劇。

静寂に包まれた部屋の中で、碧玉だけが鈍く、冷たい光を放っていた。



徐峰の瞳は、揺れる香の煙の向こうに、二十五年前の残像を見ていた。

かつての南斗派は、理想と恩讐に揺れていた。南斗の才女と言われた姉・葉芽衣ヤオ・ヤーイーは玄天と共に南北の和解を夢見たが、惨劇の露と消えた。母は悲しみのあまり病に倒れ、父である先代宗主は、愛する妻子を奪った北斗への憎悪を募らせていった。



 若き日の徐峰が心を寄せたのは、姉の親友であり、同じく融和を願う気高き師姐ししゃである蘇沐陽スー・ムーヤンであった。

しかし、北斗を討つべしと吠える門派の中、なおも南北の融和を願う彼女の言葉は「裏切り」と断じられた。

沐陽が受けた鞭打ちの罰。彼女を庇い立てする徐峰に、父は冷酷に言い放った。「貴様を次期宗主とは認めぬ。沐陽との縁も、これ限りだ」と。


保守派の長老たちにも圧力をかけられ、板挟みになった二人は、その夜、逃れられぬ運命を振り払うように一夜を共にした。


だが、夜が明けた時、彼女の姿は消えていた。

後を追おうとした徐峰を阻んだのは、父の命による「北斗派との交戦」という門派の責務であった。

「必ず探し出す」……そう心に誓い、一度だけ門派を優先した。だが、その一度の選択が、永遠の別れとなった。



それから十二年が経ち、呉浩然ウー・ハオランという少年が門を叩いた。

少年の付添人が差し出した手紙には、彼の本名が実は「スー浩然」であること、そして亡き母の遺言で南斗を訪れたことが記されていた。


(その笑い方、その瞳の輝き。私には分かる。かつて私が、この世で最も愛し、そして失った『あの光』そのものだ)


少年――当時の浩然は無邪気に語った。


「母様が言っていたんです。『南斗派に行けば、お前を導いてくれる大きな山のような人がいる』って」


自分を捨てた男を恨むどころか、息子にとっての「希望」として語り継いでいた沐陽。その慈愛が、徐峰の胸を鋭く突き刺した。

浩然の剣筋に、ふとした陽の気質に、彼女の面影を見るたび、徐峰は確信する。この少年こそが、あの一夜に宿った我が子であると。


だが、徐峰は父とは名乗らなかった。過去の罪を背負う自分に、その資格はないと断じたのだ。彼は師父として、静かに浩然を導き続けた。


「浩然。……軟剣を操るには、心まで柔らかであってはならぬ。だが、硬すぎれば剣は折れる」


それは、実の父であることを隠し通し、門派の重圧と父性の間で揺れ続ける、徐峰自身の「心の葛藤」そのものであった。

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