第53話 宿命の道行き
北斗派宗主・皓月は、卓の上に置かれた銀の鈴を凝視していた。いつの間にか宗主室に置かれていたのだ。
(……これほどの厳重な警備を易々と潜り抜け、宗主の居所にまで侵入するとは)
卓には、乾いた血の跡がこびりついた銀の鈴と、禍々しい紫微の紋が刻印された一通の書状が置かれていた。
(この鈴の房飾り……見間違えるはずもない。大師兄の遺品だ)
皓月と、双子の兄である恒星がまだ幼き少年であった頃。
いつも陽だまりのような明るさで師弟たちを導いてくれた大師兄の飛龍。北斗と南斗の長きにわたる不和を嘆き、両派の雪解けを誰よりも願っていた彼は、二十五年前のあの忌まわしき惨劇の中で命を落とした。
しかし、書状に記されていたのは、信じがたい戦慄の事実だった。
紫微教主・玄天機の正体は、あの日、飛龍と共に和議の儀式で果てたと信じられていた道士・玄天である、と。
それを知った瞬間、皓月は激しい動揺に襲われ、指先から力が抜けた。書状が音もなく床へ落ちる。
記憶の中に生きる玄天は、澄み渡る秋空のような清冽さをまとい、風のように自由で、気高き道士であった。
かつて玄天が少年たちに説いた、慈愛に満ちた教えが脳裏をかすめる。
「玄天兄さん……。かつて道教の至宝とまで謳われた貴方が、なぜ、これほどまでの闇に……」
皓月の震える呟きは、静まり返った部屋の闇に虚しく吸い込まれていった。
◇
玲玲は決然とした足取りで、宗主・皓月のもとを訪れた。
幾日も不眠不休で古譜に向き合っていたため、その顔は痛々しいほどにやつれている。しかし、瞳の奥に宿る光だけは、暗雲を射抜く星のように鋭く、確かな決意を湛えていた。
「叔父上。……『星漢共鳴曲』の復元が、成りました」
彼女は、母の遺した古譜の再構築が最終局面に至ったことを静かに、だが力強く報告した。
皓月は、手元の「紫微の紋が入った書状」からゆっくりと顔を上げ、眩しそうに姪を見つめた。
「……完成したというのか。だが、その表情を見る限り、まだ為すべきことが残されているようだね」
「はい。この琴譜は、北斗と南斗が分かたれる以前――『司命宗』の時代に編まれたものです。北斗の理だけでは、この調べは目覚めません。真の完成には、南斗派の秘術……すなわち両派の『和合』こそが不可欠なのです」
玲玲は、かつての司命宗が誇った天の理を再現するには、もはや対立している時間はないという確信を、真っ直ぐに皓月へとぶつけた。
玲玲はすでに星宇たちから聞かされていた。旅の途中、自分たちを執拗に狙い、武林の調和を乱してきた黒幕が「紫微教」という組織であること。そして彼らが今、北斗・南斗の両門派を根絶やしにせんと魔の手を伸ばしていることを。
「叔父上……いえ、宗主。紫微教の脅威が迫る今、過去のしがらみに囚われ、互いに背を向け合っている時間はありません。今こそ積年の恩讐を捨て、南斗と手を取り合うべきです」
玲玲の言葉は、静まり返った部屋に鋭く響いた。さらに彼女は、来るべき紫微教との決戦に、自分も同行させてほしいと深く頭を下げた。
浩然は、必ず現れる。
あの「お人好し」な男が、民を苦しめ、運命を狂わせる紫微教の暴挙を黙って見過ごすはずがない。玲玲の胸の内にある確信は、もはや揺るぎないものとなっていた。
浩然と共に歩んだ過酷な旅路を経て、玲玲の心に芽生えた淡い憧れは、今や「愛する者を救い、守り抜く」という鋼のような意志へと昇華されていた。
皓月はふと視線を落とし、玲玲に静かに促した。
「玲玲……その譜面を、私に聴かせてはくれないか」
玲玲は頷き、麗弦を引き寄せると、静かに爪弾き始めた。
響き渡る音色は、北斗の峻厳さを持ちながらも、その奥底には浩然から受け取った南斗の温もりが脈打っている。
それは、二十五年前、飛龍や玄天、そして南斗の才女たちが夢見た「理想の響き」そのものであった。
その音色に触れた瞬間、皓月の瞳が大きく揺れた。記憶の底に封じ込めていた、あの日の後悔が溢れ出す。
「……見事な調べだ。かつて私たちが、決して辿り着けなかった境地がここにある」
皓月は卓上の銀の鈴を指先でなぞり、絞り出すような声で語り始めた。
「紫微教主・玄天機……。かつての彼は、北斗と南斗の仲介を担う清廉なる道士であった。私と兄の恒星がまだ二十歳にも満たぬ頃、玄天兄さんと語らったことがある。あの人が屈託なく笑い、『北も南も、同じ太陽の下に生きているのですよ』と言った時、私たちは本当に、そんな未来が来ると信じていた」
皓月の声に、微かな震えが混じる。
「だが、和議の席で起きた惨劇がすべてを塗り潰した。私は、信じきれなかったのだ。あの日、疑念に駆られた私たちが彼を『裏切り者』と断じた。そのことが彼を絶望の淵へ追いやり、魔物へと変えてしまったのではないか……。あの夜、我々が信じた太陽は墜ち、代わりに底なしの闇が生まれたのだ」
玲玲は奏でる手を止め、叔父の痛切な告白を胸に刻んだ。
「玲玲、君が共に旅をした『暁陽剣仙』呉浩然を、玄天機が執拗に追う理由がわかるか。……似ているのだよ。浩然の濁りなき瞳は、かつての玄天そのものだ。玄天機は、自らが捨て去った『希望』を今なお持ち続ける者が許せず、壊したくてたまらないのだろう」
皓月は文を握りしめ、ゆっくりと立ち上がった。その背中には、一門を背負う宗主としての、そして一人の罪人としての重い覚悟が宿っていた。
「私たちの臆病さが、この二十五年の空白を作った。だが、君の音色が教えてくれた。まだ、やり直すべき時は残されていると」
皓月はふっと表情を和らげると、叔父らしい慈愛に満ちた眼差しを玲玲に向けた。
「ところで……玲玲。以前から進めていた縁談の話だが、まだ返事を聞いていなかった。魏家の若当主――鳳嵐殿とは、上手くやっていけそうか?」
不意を突かれた問いに、玲玲は言葉を詰まらせた。脳裏に浮かぶのは、北斗の誇りを背負う鳳嵐の姿ではなく、あの不器用な南斗の男の笑顔だった。
玲玲が答えを窮し、沈黙が場を支配しかけたその時。
「――宗主、魏鳳嵐にございます。入室のお許しを」
重厚な扉の向こうから、凛とした、だがどこか焦燥を含んだ声が響いた。噂をすれば、鳳嵐その人であった。
皓月はすべてを見透かしたような笑みを浮かべ、玲玲に頷いてみせる。
「ちょうど良い。玲玲、旅で得た経験や君の決意を踏まえ、一度、魏公子とじっくり話し合いなさい。彼もまた、君の帰還を誰よりも案じていた一人なのだから」
皓月の言葉に促され、玲玲は背筋を伸ばした。それは、自らの恋心に決着をつけ、救済への道を進むための、避けては通れない対峙であった。
◇
「玲玲殿……随分とやつれられた。その瞳の熱、少し休まれた方がいい」
鳳嵐は、痛々しいほどに没頭し続けた彼女を案じ、いたわるような声をかけた。
対する玲玲は、自らの内に宿る確信を静かに、だが熱を持って語る。
「鳳嵐様。……『星漢共鳴曲』の復元が、成りました。この調べがあれば、きっと……」
彼女が語るのは、曲の完成のこと、そしてその先にいる「彼」のことばかりであった。鳳嵐はそれを聞きながら、悟っていた。彼女の心の中に、もはや自分が入る隙間などないのだと。
玲玲は鳳嵐を真っ直ぐに見つめ、唇を噛んだ後、意を決して言葉を紡いだ。
「鳳嵐様は、あまりに完璧で、眩いほどに高潔な殿方です。私などよりずっと相応しい方が、貴方のそばで幸せを育むべきですわ。
……ですが、浩然様は、私がいなければ明日をも知れぬ闇に消えてしまう。私は、どうしても、あの方を救って差し上げたいのです」
彼を救えるのは自分だけだという、痛切なまでの独断。しかし、それこそが玲玲が死線を越え、旅の果てに辿り着いた、唯一無二の「愛の形」であった。
鳳嵐は束の間、奥歯を噛み締め、押し寄せる敗北感を飲み下した。当主として、軍師として、男として。
(……動かぬ星は、天に一つあればいい。私はその光を支える、揺るぎない夜空になろう)
彼は、自らが主役となる未来を捨て、彼女と浩然という「星」を輝かせるための「夜空」になることを選んだ。
鳳嵐は完璧な礼装で、玲玲に向き直った。その顔には、いつもの冷徹な仮面ではなく、憑き物が落ちたような晴れやかな笑みが浮かんでいる。
「玲玲殿。……残念ながら、私の完璧な計算に一つだけ誤算がありました。貴方の心は、私の贈り物よりも、彼のお節介を求めていたようだ。……私の完敗です」
「鳳嵐様……」
「勘違いしないでいただきたい。私は、今でも貴方に最も相応しいのはこの私だと自負しておりますよ。……ですが、貴方が選ぶ『正義』が彼であるならば、その道を守り抜くことこそが、北斗の武芸者としての私の誇りです」
鳳嵐は優雅に手を差し出し、玲玲の行く先を指し示した。
「玲玲殿。貴方を彼のもとへ、私がお連れしましょう。……最高の舞台を整えて差し上げます」
◇
「北斗に連なる者すべてに伝えよ。積年の恩讐を断ち、罪を贖う刻が来た。これより紫微教の総本山『紫霄山』へ攻め入る!」
宗主・皓月の激が飛び、北斗派の一門は一斉にその腰の剣に手をかけ、宿命の地へと向けて馬を飛ばした。




