第52話 裁きと許しの共鳴
天枢城の午後。
北斗派の厳格な空気とは裏腹に、宗主・皓月の私邸だけはどこか穏やかな時間が流れていた。
養父である皓月の傍らで、烈華は普段の「氷の女武芸者」としての鋭さを完全に消し去っていた。甲斐甲斐しく茶を淹れ、茶杯を差し出す手つきも柔らかい。
「父上、どうぞ。お疲れのようですから、香りの強いものを選びました」
そう言って微笑む烈華の表情は、春の陽だまりのように和やかだ。身内にだけ許された無防備な優しさに溢れている。
それを扉の陰から、複雑な形相で見つめる男がいた。次期宗主であり、彼女の許嫁でもある星宇である。
(おいおいおい! 烈華ちゃん、私と二人きりの時だって、あんな顔を見せてくれるまでには数年かかったではないか! 叔父上の前だと、こうもあっさりと『可愛い娘』の顔になるのか!? 叔父上、ずるくない!?)
星宇の脳内では、将来の伴侶としての独占欲と、叔父への敬愛が激しく火花を散らしていた。
二人きりの夜に、稀に見せてくれる彼女の柔和な表情を宝物のようにしている星宇にとって、目の前で繰り広げられる睦まじい光景が、羨ましくて仕方がなかったのである。
我慢できなくなった星宇は、二人の間に勢いよく割って入った。
「叔父上! お茶なら、この星宇にお任せを! この星宇、北斗派随一の茶の淹れ手として有名でして……さあさあ、烈華は下がって、私と代わりましょう!」
恩を売るように、かつ烈華の役割を奪うように割って入った星宇だったが、直後、鈍い衝撃が走った。
「あだっ!!」
烈華が、一切の表情を変えずに、星宇の足の甲を思い切り踏みつけたのだ。
「……目障りだ、星宇。今は宗主とお話し中だ」
皓月に向けるのと同じ人物とは思えない、極寒の吹雪のような冷声。星宇は痛みで顔を歪め、片足でぴょんぴょんと跳ねながら、恨めしそうに烈華を睨んだ。
「烈華ちゃん……二人きりの時のあの愛らしさはどこへ行ったんだ……! 許嫁の前で、その態度の差はあんまりじゃないか!」
「……黙れ。鍛錬もせずに茶の淹れ方ばかり磨いているから、隙ができるんだ」
烈華は冷たく突き放したが、星宇が本気で痛がっているのを見て、ほんの一瞬だけ、皓月に気づかれないように心配そうに眉を寄せた。しかし、次の瞬間にはまた「冷徹な女武芸者」の顔に戻り、星宇を冷たくあしらう。
皓月は二人のやり取りを眺め、すべてを見透かしたような穏やかな微笑を浮かべて茶をすすった。
「星宇よ、あまり烈華を困らせるな。彼女もお前の前でだけは、また違う顔を見せているのだろう?」
「叔父上までそんな……! 痛っ、烈華ちゃん、また踏んでる! 骨が、骨が軋んでるから……!」
天枢城の静かな午後は、星宇の悲鳴と、烈華の隠しきれない愛情(という名の折檻)、そして宗主の笑い声と共に過ぎていくのだった。
◇
玲玲は北斗派の蔵書に眠る膨大な琴譜をすべてさらい、不完全なまま遺された古譜を完成させるべく、寝食を忘れて没頭していた。
一日は過ぎ、三日が過ぎ、やがて一週間が経とうとしても、玲玲が蔵から出てくることはなかった。扉の向こうからは、絶え間なく筆の走る音と、時折、魂を削り出すような琵琶の鋭い音が漏れ聞こえてくる。
「玲玲、いい加減にしろ。少しは口にしないと、あいつを助ける前にお前が倒れるぞ」
星宇が盆に乗せた食事を手に何度も扉を叩いた。普段は軽口ばかりの彼も、この時ばかりは眉間に深い皺を寄せ、隠しきれない焦燥を滲ませている。
しかし、中からは「今は放っておいて」という、熱に浮かされたような声が返ってくるだけだった。
見かねた烈華が、強引に扉を開けて踏み込んだこともあった。
「……玲玲、顔を見ろ。鏡を見るのが恐ろしくなるほど酷い有様だ。一度眠れ。これは命令だ」
烈華の厳しい言葉も、今の玲玲には届かない。床に散乱した数多の紙片の中で、墨に汚れた手で必死に旋律を紡ぎ続ける玲玲の瞳は、ただ一点の希望だけを見つめていた。
「……烈華姉様、お願い。あと少し、あと一節なの。母様が命懸けで守り、あの人が命を懸けて繋いだ明日が、ここにあるの……」
その鬼気迫る姿に、武芸者として死線を潜ってきた烈華でさえも、それ以上言葉を続けることはできなかった。
かつて、沈家の滅亡という惨劇の最中、亡き母・静麗は一編の古琴譜を守り抜いた。
実家の宝物庫に秘されていた『天枢清音』。それこそが、北斗と南斗が分かたれる以前の大曲「星漢共鳴曲」を記した唯一の証であった。
しかし、襲撃の火に巻かれた琴譜は、肝心な部分が焼失し、無残に欠落していた。
天の星々と人の魂を共鳴させ、あらゆる穢れを浄化する禁断の旋律。
玲玲の指は、弦を弾く代わりに筆を走らせ、空中に無数の旋律を描き出す。数多の譜面を繋ぎ合わせ、欠けた音節を自らの魂で埋めていくが、何度試みても調べは一つの流れにならず、最後には不協和音となって霧散してしまう。
「……何かが足りない。北斗の理だけでは、この曲は目覚めないのね」
焦燥の果てに、玲玲は楽譜の末尾に隠された小さな一文を見出した。
――『北斗と南斗が共鳴する時、真の光が宿る』
その瞬間、彼女の脳裏を駆け巡ったのは、あの「お人好し」な男の面影だった。
北斗派の調べは、あまりにも鋭く、裁きに満ちている。しかし、浩然の武芸は違った。彼の剣筋には、傷ついた者を包み込む慈雨のような温かさがあった。
玲玲は目を閉じ、彼が静かに語った言葉を反芻する。
「泥を啜ってでも、誰かの明日を守る」という、愚直なまでの信念。そして、彼がふとした時に口ずさんでいた、南方の柔らかな子守唄の調べ。
(そうか……裁きではなく、許し。武の力ではなく、生への慈しみ……!)
北斗の激しい拍子の隙間に、玲玲は記憶の中にある南斗の柔らかな節回しを織り込んでいく。それは、鋭い冬の風の中に、春の陽だまりを招き入れるような試みだった。
すると、頑なに拒絶し合っていた音節たちが、嘘のように共鳴し始めた。浩然の優しさが、北斗の鋭さを包み込み、昇華させていく。欠けていた最後の一節が、「慈愛」という名の響きで満たされた瞬間だった。
ついに、最後の一筆が書き加えられた。
バラバラに散っていた音の欠片たちは、玲玲の手によって命を吹き込まれ、一条の巨大な「光の譜面」として完成を見たのである。
玲玲は震える手でその譜面を抱きしめた。
「母様……見ていてください。この曲が、きっと彼を連れ戻してくれます」
蔵の窓から差し込む月光が、完成した『星漢共鳴曲』を白く照らし出していた。




