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星漢共鳴曲  作者: ふじま
第5章
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第51話 灰色の空、動き出す星図

天枢城の空は重く、鈍い灰色に沈んでいた。


浩然ハオランと離れ、北斗派の総本山へと帰還した玲玲リンリンは、それまでと変わらぬ「北斗派の令嬢」として振る舞っていた。

笑顔で門弟と言葉を交わし、琵琶を奏でる。浩然の名を口にすることはない。

しかし、時折、琵琶の弦に触れたまま指を止め、虚空を見つめるその横顔は、周囲の者が目を背けたくなるほどに痛々しかった。


「……おいおい、そんな暗い顔で弦を弾いたら、北斗の星々も逃げ出すぞ」


わざとらしい軽口を叩きながら現れたのは、兄の星宇シンユーだった。いつものように玲玲をからかい、鼻先で笑ってみせる。

だが、玲玲が視線を逸らした瞬間、その瞳からは遊び心が消え、鋭い焦燥が宿った。

星宇は知っていた。妹が、明日をも知れぬ「死にゆく男」に恋をしてしまったことを。


(馬鹿な奴だ、あんな死に損ないの男を好きになるなんて……)


毒づきながらも、星宇は妹が愛した男の命を繋ぐため、裏で奔走していた。次期宗主としての権限を使い、北斗派の情報網を駆使して、各地の闇医者や薬売りに「あらゆる毒を無効化する伝説の霊草」の情報を求めて、密使を放っていたのだ。



一方、烈華リェファは、玲玲の心中を察しながらも言葉をかけられずにいた。

ある夜の稽古終わり、彼女は月を見上げる玲玲の隣に無造作に腰を下ろした。 


「……あのような男、どこが良い」


烈華は、研ぎ澄まされた剣先を見つめたまま、ぶっきらぼうに言う。玲玲が驚いて顔を上げると、烈華は鼻を鳴らし、言葉を継ぐ。


「甘いし、危なっかしい。武芸者としての格も、今のあいつにはない。……だが、背中だけは、預けるに値する。あいつが死ぬというなら、それは背中の仲間を逃がした後だろうよ」


それは、誇り高い烈華が、一人の武芸者として浩然を認めた最大級の賛辞だった。

烈華は視線を剣から外し、月を見上げる玲玲を横目で捉えた。


「悩み抜いて、弦を腐らせるくらいなら……その背中を追いかけたらどうだ」


突き放すような言葉の裏にある「行け」という強烈な後押し。玲玲の瞳に、迷いの霧を払うような光が宿る。 


「……ありがとう、烈華姉様」


玲玲は小さく、だが力強く頷いた。



その夜から、玲玲は変わった。

彼女が籠もったのは、母の遺品が眠る冷え切った蔵だった。寝食を忘れ、積み上げられた古い絹本や断片的な琴譜の束に、取り憑かれたように向かい合う。


玲玲には、一度聴いた調べを終生忘れないという天賦の才があった。

かつて母が口ずさんでいた断片的な旋律、書物に記された古の拍子。霧散していた旋律の断片が、玲玲の鋭敏な聴覚の中で火花を散らし、一つの巨大な星図を描き出すように結びついていく。


「母様……見守ってください。これがきっと、彼を救う道に繋がると信じています」


ウェイ家の若当主、鳳嵐フォンランは、北斗派の奥深くに眠る書庫で、古びた竹簡を握りしめていた。


本来ならば、彼のような名家の跡取りが、埃にまみれて他派の毒の治療法を漁るなど、あってはならないことだ。周囲は彼を「北斗派令嬢の最も有力な婚約者候補」と呼び、彼自身もまた、彼女の隣に立つのは自分であると信じて疑わなかった。


だが、鳳嵐の脳裏には、どうしても消し去ることのできない光景がある。

傷を負った浩然の傍らで琵琶を奏でていた時の、玲玲の姿だ。

その音色は、魏家が求めるような「形式美」を遥かに超越していた。激しく、脆く、そして一途に浩然という男の魂に縋り付こうとする、剥き出しの命の響き。


(……勝ち目がない、ということか)


鳳嵐は自嘲気味に口角を歪めた。

家柄も、彼女への想いも自分の方が勝っているはずだった。

しかし、浩然を見つめる彼女の瞳の中に、自分が入る余地は毛頭ない。生死の淵で結ばれた二人の絆は、魏家の名声をもってしても断ち切ることはできないことを、彼は誰よりも残酷に理解していた。


「若当主、まだお続けになるのですか」


控えていた門弟の問いを、鳳嵐は冷たく遮った。


「黙っていろ」


鳳嵐は、手に持った古文書を睨みつけた。

浩然が死ねば、玲玲は一生、その影を追い続けるだろう。もし彼を救うことができれば、玲玲の笑顔は守られるかもしれないが、二人の絆はより強固なものとなる。どちらを選んでも、鳳嵐に「勝利」の二文字はない。


「私はただ……あの人の音が、濁るのが耐えられないだけだ」


鳳嵐は知ってしまったのだ。玲玲の琵琶が、浩然のそばにいる時に最も美しく、そして何者にも届かぬ高みへ至ることを。

武林の名家としての矜持が、「恋敵を助けるな」と囁く。

しかし、玲玲を愛する一人の男としての心が、「彼女の音色を殺すな」と叫んでいた。


「……浩然。君は死ぬことさえ許されない。彼女に、あれほどの音を弾かせておきながら、逃げ出せると思うなよ」


鳳嵐は、複雑な敗北感を無理やり傲慢な自尊心で塗り潰し、再び文字の海へと沈んでいった。

彼が探し当てようとしているのは、恋敵の命を救い、同時に自分の失恋を決定づけるという、あまりに切ない「希望」であった。


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