第50話 お人好しの原点
静寂が支配する、荒れ果てた道観の境内。浩然は独り、闇に消えた男の残像を反芻していた。
「……不思議だな。あいつを見ていると、鏡を覗き込んでいるような気分になる。玄天機が捨て去った『心』を、私はまだ捨てられずに持っている。それだけの違いしかないような⋯⋯」
本来ならば、湧き上がるのは純粋な憎悪のみであるはずだった。しかし、浩然を支配しているのは奇妙な既視感――。
(……似ている)
歩む道こそ正反対だが、魂の格は鏡の表裏のように等しく、鋭く、そして残酷なまでに孤高であった。
一方は衆生を救うために光の道を歩もうとし、一方は理を壊すために闇の底から天を睨んでいる。
正道の光と信じた門派からは見放され、誇りであった剣才は毒に焼かれ、愛する玲玲の手さえ今は離れている。今の浩然は、文字通りすべてを失った「虚無」の淵に立っていた。
だが、玄天機が嘲笑と共に遺した闇の予言が、逆に彼の魂の芯を熱く叩いた。
「……私は、お前とは違う」
吐き捨てた言葉は、血混じりの唾液と共に泥に落ちた。しかしその声は、夜の闇を裂くほどに鋭く、凛としていた。
「お前が天の理を塗り替え、孤独な神になると言うのなら……」
浩然は、力が入らぬはずの右拳を固く握りしめた。どす黒い毒の筋が浮き出たその腕に、かつての『暁陽剣仙』としての輝きはない。しかしそこには、死線を越えた者だけが宿す不屈の重みがあった。
「私はこの泥の中から、お前の野望を撃ち抜いてみせる」
呟いたその言葉は、もはや武芸者の威勢ではない。一人の人間が、理不尽な運命に対して叩きつけた宣戦布告であった。
風が吹き抜け、道観の扉が乾いた音を立てて鳴る。
浩然は空を仰いだ。星は見えない。
だが、彼には見えていた。暗雲の向こう側で、いつか北斗と南斗が再び正しく並び、愛する者の奏でる琵琶の音が、この大地に鳴り響く未来を。
男は道観に背を向け、歩き出した。
向かうは、南斗派の総本山「陽明城」。毒に侵されたこの身では二度と跨ぐまいと誓い、捨てたはずの場所。
かつての剣仙ではなく、ただの無力な男として蔑まれ、拒絶されることすら覚悟の上の帰還である。
だが浩然はまだ知らない。たとえ内功を失い、泥にまみれていようとも、その魂の気高さを信じ、彼を尊き『暁陽剣仙』として待ちわびる人々がそこにいることを。
彼は自らへの嘲笑を押し殺し、ただ一人の「お人好し」としての使命を果たすべく、再び運命の渦中へと身を投じるのであった。
◇
「腐骨蝕魂散か……」
浩然は手の平を見つめながら呟いた。
目を閉じれば、あの日――己の運命が暗転したときの記憶が、鮮明な苦痛と共に蘇る。
南斗派には「眼前の苦しみを捨て置く者は、南斗の星を仰ぐ資格なし」という、峻烈なまでの信念がある。浩然は誰よりもその教えを純粋に信じ、修行の傍ら、村々を回って無償の医術を施す日々を誇りに思っていた。
事件は、南斗派の領地にある貧しい村で起きた。
突然原因不明の疫病が流行したのだ。村人たちが次々と命を落とす中、怪しげな祈祷師がやってきて民の恐怖を煽った。
「これは山の神の怒りだ。最も清らかな娘を捧げねば村は滅びる」
救援に訪れた浩然は、それが疫病ではなく人為的な毒であることをすぐさま見抜いた。
だが折悪しく、医仙谷の神医たちは皆出払っている。
浩然が策を講じる間もなく、狂乱に陥った村人たちは、生贄として一人の少女を「禁忌の谷」へと突き落とした。
その瞬間、浩然に迷いはなかった。
少女を救うべく闇へと飛び込み、彼女を抱きかかえて上へ放り投げる。谷底に落ちていく最中、なんとか足がかりを見つけ、崖にしがみつく。その時、猛烈な毒の霧が浩然を包囲した。
(母さんはよく言っていた……『誰かの明日を共に守りなさい』と)
浩然は自らの内功を全開にし、谷底に拡散しようとする毒霧を、まるで磁石のごとく己の体内へと引き寄せ、封じ込めた。
経絡を焼き尽くすような激痛が全身を走る。
だが、毒を浴びながらも、浩然の唇は微笑を浮かべていた。
ここで自分が退けば、この村の未来は消える。自分の命一つで、あの子供たちが明日も笑えるなら――。
それは、母の教えを完璧に体現できたという、あまりに切なく、気高い充足感だった。
結局、命こそ助かったが、代償は大きすぎた。輝かしい剣才と、南斗の奥義を操るための経絡は『腐骨蝕魂散』によって無残に焼き尽くされたのだ。
帰還した彼を待っていたのは、称賛ではなく冷酷な現実だった。
「次期宗主とも目される者が、独断で力を失うとは、無責任極まりない」
そう糾弾する長老たちの冷徹な声。彼を支持し、理不尽に憤る若い門弟たち。板挟みとなり苦渋の決断を迫られる宗主。
浩然の処遇を巡り、南斗派は内側から裂けようとしていた。
「……ならば、私は死んだことにしてください」
解毒の術もなく、もはや門派の荷物でしかない自分。浩然は、愛する居場所をこれ以上汚さぬよう、静かに身を隠す道を選んだのだった。
(原因不明の疫病、怪しげな祈祷師、谷底の毒霧⋯全て紫微教の仕業だったのか)




