第49話 美しい嘘と、笑わぬ仙境
村近くの荒れ果てた道観の前。
毒に蝕まれ、死の影をまといながらも、浩然の背筋は正道の武芸者としての気品を失っていない。
目の前に立つ男――紫微教主・玄天機を認めた瞬間、浩然の総毛が逆立った。胸元の紫微の紋を見て確信する。
「……お前が、すべての元凶か」
玄天機は、漆黒の衣を夜風にたなびかせ、音もなくそこに立っていた。
二人が対峙した瞬間、周囲の空気が凍りついたかのような重圧に支配される。それは、凡庸な武芸者には決して持ち得ぬ、天賦の才を持つ者だけが放つ特異な磁場だった。
「……ほう。その身を毒に灼かれながら、これほどまでの覇気を保っているとは。私が放った十二宮も退けたそうだな。暁陽剣仙の名は伊達ではない」
玄天機が、陶器のように白い顔に愉悦の笑みを浮かべた。その声は、敵への殺意以上に、同類を見つけた時の喜びに震えている。
「我が名は玄天機。南斗の秘蔵っ子、浩然。お前のその『正義』が、内側から腐り落ちる気分はどうだ?」
「……何だと」
「お前の経絡を這い回っているのは、我が紫微教が誇る奇毒――『腐骨蝕魂散』。それはただ命を奪うものではない。誇り高き武芸者の内功を根こそぎ喰らい尽くし、魂ごと泥に溶かすための呪いだ」
浩然は胸を衝かれた。自分を苦しめてきた毒の正体。それは武芸者としての存在意義そのものを封じ、精神を崩壊させるために作られた「絶望」だったのだ。
「内功を封じられたお前は、もはや道端の石ころにも等しい。……だが、浩然よ。その絶望の果てにこそ、我らと同じ『真実』が見えるとは思わないか?」
玄天機がゆっくりと手を伸ばす。その指先から放たれる禍々しい気。浩然の右腕に走る毒はその気と共鳴するように疼き出した。
浩然の喉の奥から、絞り出すような声が漏れる。
「……なぜ関係のない民まで巻き込む……!」
その問いに対し、玄天機は一切の殺意を見せなかった。ただ、陶器のように滑らかな蒼白の顔に、憐れみを含んだ微笑みを浮かべる。
「巻き込む? 心外だな、浩然。……民とは、寒風の荒野を彷徨う、拠り所なき一葉のようなものだ。君のように『自らの足で歩け』と無責任に突き放すことこそ、あまりに無慈悲で、残酷な仕打ちだとは思わないか?」
彼は一歩、優雅な所作で踏み出し、漆黒の道袍を夜風にたなびかせた。
「君が命を懸けて救ったあの村の人々も、明日にはまた飢えや病、あるいは別の困難に打ちひしがれる。君の正義はその場しのぎの慰めに過ぎず、彼らの絶望を根本から拭い去ることはできない。……だが、私は違う」
玄天機は、その細長い指先を、星の見えない天へと掲げた。
「私は彼らに、迷わぬための唯一の星を与えた。豊かな実り、病なき世界、そして死を越えた仙境……。私の言葉を信じ、私に魂を預けるだけで、彼らはこの地獄のような世から永久に解き放たれるのだ。彼らが私のために命を捨てるのは犠牲ではない。それこそが、彼らにとっての救済なのだよ」
底知れぬ茶色の瞳が、浩然を射抜くように細められた。
「君に、彼らの底知れぬ絶望を埋めるだけの『言葉』が、果たしてあるのかな?」
浩然は溢れそうになる鮮血を飲み込み、震える足で一歩、地を踏みしめた。右腕を這う『腐骨蝕魂散』の激痛を、怒りの炎で焼き切るように。
「……ああ、ある。私には、お前のような美しい嘘はつけない。だがな、玄天機。お前の言う『仙境』にいる者たちは、誰も笑っていない。ただ生きたまま死んでいるだけだ!」
浩然は震える右腕を掲げ、真っ直ぐに教主を指し示した。
「泥を啜り、絶望に足掻きながらでも、人は今日という日を自らの意志で選ぶことができる。その一歩を笑い、思考を奪う者に、民の明日を語る資格などない!」
玄天機の笑みが、ふっと消えた。その瞳に吹雪のような冷徹さが宿る。
「……やはり、君とは相容れない。ならば、まずは北斗と南斗をこの世から消し去るとしよう。かつてこの私を裏切り、友を殺させたあの古き秩序こそが、諸悪の根源だ」
玄天機は漆黒の袖を翻し、天枢城のある方角を見据えた。
「すべてを一度、無に還す。北斗も南斗も、その歪んだ歴史ごと私が飲み込もう。混沌という名の灰の中から、私が唯一の神として、争いのない新たな天を再構築する。……浩然、お前はその特等席で、自分の守ろうとした世界が瓦解するのを眺めているがいい」
玄天機は優雅に一歩退がると、漆黒の道袍が夜の闇に同化した。
「……近いうちに、また相まみえよう。その時まで、絶望に喰い尽くされぬよう励むことだ」
皮肉めいた別れの言葉を遺し、玄天機の姿は、霧が晴れるように音もなく夜の闇へと溶けていった。
そこに実体があったことさえ疑わせるほどの、あまりに鮮やかな消失である。
後には、静寂に包まれた荒れ果てた道観と、毒に蝕まれながらも、その瞳に消えぬ闘志を燃やす一人の武芸者だけが取り残された。




