第48話 深淵の教主
蒼燕の港で浩然と玲玲が引き裂かれてから数日。北斗と南斗の緊張は、もはや一触即発の臨界点に達していた。
だが、互いに剣を向け合う両派の背後で、音もなく暗雲が渦巻いていることに気づく者はまだいない。
「……計算通りですな、教主」
天枢城を望む山嶺の道観。その影の中から、数人の男たちが現れた。彼らがまとうのは、星々を逆様に配した不吉な「紫微」の紋。
その中心に座すのは、各地で毒を撒き、数多の災いを引き起こしてきた元凶――。幾度となく刺客を放ち、北斗派一行と浩然を死の淵へと追い詰めてきた紫微教主、玄天機であった。
玄天機は、重厚な黒紫色の道袍を揺らし、音もなくそこに佇んでいた。
その立ち居振る舞いは驚くほど優雅だ。陽の光を一切拒絶したかのような蒼白の肌に、深い茶色の瞳は底知れぬ深淵を宿している。
濡れた烏の羽のごとき黒髪が、風もないのに揺らめき、内側に秘めた強大な内功の異質さを物語っている。
その場に居合わせた者たちは、彼が放つ圧倒的な「覇気」に気圧され、呼吸を忘れて立ち尽くすほかなかった。
「北斗は『守護』を謳いながら、その強大すぎる武力で民を怯えさせている。南斗は『慈悲』を説きながら、内実は次世代の希望であった浩然一人すら救えず、毒に侵された彼を切り捨てた……」
玄天機は、手元にある北斗と南斗の紋章が刻まれた木札を弄ぶ。
「彼らが掲げる『正義』など、脆い砂上の楼閣に過ぎない。その矛盾を突き、互いの喉元を食い破らせる。北梁の秩序を支える二本の柱が折れた時、天の理は我らの手によって塗り替えられるのだ」
仮面の奥に隠された、暗茶色の瞳が冷酷に細められた。瞬き一つせず、相手の魂の底を見透かすその眼差しは、もはや人というよりは魔物のようだ。
紫微教の手法は実に卑烈であった。
両派の門弟に紛れ込んだ間者たちは、夜な夜な互いの領地を荒らし、凄惨な殺戮の痕跡を残していく。
北斗派には「南斗が浩然を使って玲玲を誘拐し、北斗の秘術を盗もうとした」と吹き込み、南斗派には「北斗が浩然に濡れ衣を着せ、南斗の誇りを亡き者にしようとしている」と憎しみを煽る。
「浩然に与えた『奇毒』も、良い触媒となった。彼が死に損ないとして江湖を彷徨えば彷徨うほど、南斗の無能さと北斗の冷酷さが際立つ……」
玄天機が細い指先で木札を握り潰すと、乾いた音が道観に響く。
その頃、天枢城の奥深くで琵琶を奏でる玲玲も、闇の中で毒に蝕まれる浩然も、まだ知る由はなかった。
自分たちの運命を翻弄したあの別れさえも、紫微教が描き出した巨大な陰謀の一部であったことを。
「北斗を砕き、南斗を散らし……朝廷という玉座に座る者さえ、我らの操り人形に変えてやろう」
玄天機の冷笑が、暗い山々にこだまする。
江湖は今、かつてない漆黒の夜を迎えようとしていた。
◇
浩然は薬草を採取しに山へ入り、その帰り道、ひっそりと静まり返った寂れた村に立ち寄った。
そこで彼が目にしたのは、紫微教の甘い蜜に狂わされ、全財産を献上した村人たちの変わり果てた姿だった。
「教主様に魂を預ければ、来世では救われる」
村人たちは、うわ言のようにそう唱え、ただ死を待つように地面に座り込んでいる。その瞳からは生気が完全に失われていた。
空間を満たすのは、道士どもの放った妖しき魔香。人々の恐怖を増長させ、禍々しい幻覚を見せている。浩然の五感も狂い始め、底なしの絶望がその身を侵蝕し始めた。
目の前の景色が暗転し、独り湿った草むらで死を待つ独な夜の情景が広がる。経絡を焼く毒の筋が全身を駆け巡り、肉体が腐り落ちていく幻覚。
『暁陽剣仙ともあろう者が、名もなき泥の中で惨めに朽ち果てるか。貴様に救える者など、最初から誰もいないのだ』
闇の中から、かつて自分が斬り伏せてきた者たちの怨嗟の声が響く。
浩然は激しい目眩に襲われ、膝をつきそうになった。
(私は……何のために生き長らえてきた。ただ独りで、誰にも看取られず、この闇の中で消えるためか……?)
だが、その泥のような絶望を、あの少女の泣き顔が引き裂いた。
(……黙れ。私が闇に朽ちることは恐れない。だが、私がここで倒れれば……あの子が日向を歩めなくなる!)
男の宿す剣気は、過去の亡霊程度で揺らぎはしない。浩然は地を這うような低い呼吸と共に剣を強く引き抜き、一息に幻影の呪縛を断ち切った。
迅雷の如き一閃。
虚空の魔物は霧のごとく消滅し、恐怖を操っていた道士どもは、一瞬にして斬り伏せられた。
一人の男が、飢えて泣く我が子を抱えながら「教主様が救ってくださる。私たちが何をしても無駄だ」と虚ろな目で呟く。浩然は男の胸ぐらを掴み、泥の中に叩きつけた。
「……教主が救ってくれるだと? 笑わせるな」
浩然の声は、かつての温和さをかなぐり捨てた、地を這うような低さだった。
「お前が今、その子のために動かせる手足があるなら、泥を食ってでも生き延びろ。神や仏に命を預けて、思考を止めるのは『救い』じゃない。それは、生きたままの『死』だ」
「あんたのような強い武芸者に、俺たちの何がわかる!」
村人は逆上して胸ぐらを掴み返してくる。浩然は毒に侵され、どす黒い筋が浮き出た自らの震える右腕を晒し、男の目の前に突きつけた。
「武芸者だが、見ての通り、俺は毒に侵された身だ。明日、自分が生きている保証さえない……。だがな、私はこの足で歩くことをやめない。誰かに自分の魂を明け渡して楽な夢を見るくらいなら、私は絶望の中で足掻いて死ぬ方を選ぶ!」
浩然は懐から、泥にまみれて掘り起こしてきた薬草を男に叩きつけ、背を向けた。
「立て。自分の足で立て。……お前が今日、その子のために一歩踏み出すなら、その一歩こそが、どんな神の奇跡よりも尊い救いだ」




