第47話 暁陽、闇へ去る
京星大運河を北上し続けた一行の船が、ついに目的地、北の本拠地・天枢城を望む都「蒼燕」の港へと滑り込んだ。
港には、北斗派の宗主・皓月が差し向けた精鋭たちが、威容を誇る白銀の甲冑に身を包んで待ち構えている。それは北斗派が単なる武術門派を超え、一帯を支配する強大な軍事的権力を持っている事実を、無言のうちに誇示していた。
「――その男を捕らえよ!」
出迎えの先頭に立つ長老が指差したのは浩然だった。
「南斗派の六星の一人『暁陽剣仙』。北斗の宿敵たるその身を隠し、よくも我が令嬢に近づいたものだ!」
凍りつくような静寂の中、玲玲は浩然を庇うように前に出た。
「お待ちください! 浩然様は私の命の恩人です。彼がいなければ、私は今頃……!」
しかし、浩然は玲玲のその手を、今まで見せたこともないような冷酷な手つきではね除けた。たたらを踏んだ玲玲を、背後にいた鳳嵐が支える。鳳嵐は、浩然のあまりの豹変ぶりに驚愕の表情を浮かべた。
浩然は一歩退くと、自嘲的な笑いを浮かべて口を開いた。
「……やれやれ。流石は北斗派、耳が早い。その通り。私がかつて暁陽と呼ばれた男。だが今は、見ての通り毒に侵され、古巣の南斗にさえ見捨てられたただの死に損ないだ」
彼は無造作に上衣をはだけた。そこには、肩から胸元にかけて、不気味な黒い筋が血管のように浮き出ていた。
「あれは、毒が経絡を伝って……!? 心臓まであとわずかではないか!」
星宇が声を震わせる。その深刻な症状は、誰の目にも明らかだった。しかし浩然はそれを気に留める風もなく、精鋭たちが身につけている「北斗の鈴」を指差してせせら笑った。
「玲玲殿、勘違いしないでいただきたい。私が貴女を助けたのは、貴女が北斗派の令嬢だったからだ。後でどれほどの金が手に入るか……最初からそれが目的だったのさ」
浩然にとっての愛とは、己の汚れを彼女に伝染させぬこと。自分は長くは生きられぬ毒の身であり、かつ、彼女の門派とは不倶戴天の敵だ。
玲玲が「北斗派の清廉なる令嬢」として日向を歩み続けられるよう、彼は旅路のすべてを「偽り」という泥で塗り潰し、一人闇の中へ消えようとする。
それは、彼が最後に贈る、あまりにも不器用で究極の「お節介」であった。
「金をもらったら、もう貴女に用はない。私の前に二度と姿を見せるな」
玲玲は、背を向けようとする浩然の瞳を真っ直ぐに見つめていた。
かつて恋物語に憧れていた夢見がちな少女ならば、彼の冷酷な言葉に絶望し、立ち直れなかったかもしれない。だが、凄惨な死線を共に越えてきた今の玲玲は、「本物の彼」をその魂で知っている。
彼女は泣き崩れるのではなく、震える手で麗弦を抱え、静かに一節を奏でた。
それは彼が毒の苦痛に悶え、孤独な夜を彷徨う時、彼女が寄り添い奏で続けた「浄化の旋律」――。
玲玲が琵琶を弾き始めた瞬間、浩然の氷のような仮面が一瞬だけ、脆くも崩れそうになる。
(嘘をつかないで。貴方の指先は、さっきまで私の重い荷物を肩代わりして、あんなに優しく笑っていたじゃない。貴方が私のために削った命を、そんなもので汚そうとしないで)
もはや言葉は不要だった。彼女の愛は、移ろいやすい「夢」から、何者にも揺るがされない「信頼」へと進化していた。奏でられた音色は、彼が吐き出した嘘をことごとく暴き、その「行動」に刻まれた真実だけを白日の下に晒していく。
その調べを傍らで聞いていた烈華は、何も語らず、ただ硬く拳を握りしめていた。
旅の途中、妹分のように慈しんできた玲玲の様子を、彼女は誰よりも近くで見守ってきた。二人がどれほど深く想い合い、魂を通わせていたか。それだけに、玲玲の抱える覚悟と、これから訪れるであろう残酷な別れを想うと、烈華の胸は己のことのように締めつけられた。
演奏が終わった。余韻を切り裂くような長老の一声で、北斗派の精鋭たちが一斉に浩然へ剣を突き立てる。
それは恩人に対するものではなく、不浄な侵入者を排除する冷徹な刃だった。
「これだけあれば十分だろう。二度と我らの前に姿を現すな」
放り出された金子の袋が、乾いた音を立てて浩然の足元に転がる。
玲玲は門弟たちに囲まれ、抗う術もなく天枢城へと連れて行かれる。幾度も振り返り、彼の名を呼ぼうとする彼女の姿が、白銀の甲冑の列に飲み込まれて遠ざかっていく。
浩然は、ただ静かにその背中を見つめていた。
ふと足元に目を落とすと、彼女が落としたのであろう、二人で食べた菓子の包み紙が落ちていた。かつての思い出を宿したその紙片が、踏みにじられ、泥にまみれていく。それは、二人の幸福だった旅の、残酷なまでの終焉を象徴しているようだった。
浩然は、泥に汚れたその包み紙をじっと見つめる。
その瞳に、一瞬だけ――玲玲の隣で、ただの「お人好しな薬売り」として笑っていた頃の、穏やかな光が宿る。しかし、それも瞬きする間に消え、あとに残ったのは死を待つ武芸者の、虚ろで冷徹な眼差しだけだった。
浩然は声を出さず、ただ唇の動きだけで、遠い背中に言葉を贈った。
(……生きろ。生きて、幸せになれ)
お人好しな彼は、最期まで己の救いなど求めない。ただ、彼女が日向で生き永らえることだけを、自身の命を削るようにして願う。
浩然は、毒に蝕まれた重い体を引きずり、誰に見送られることもなく、一人孤独な闇の中へと去っていった。
◇
玲玲は天枢城の宿営に着くと、虚脱感に苛まれながら自らの荷を解いた。
すると、荷の奥底から見慣れぬ包みが現れる。
お人好しな浩然は、あの冷酷な決別の裏で、彼女のために特製の冷え性の薬と、彼女が好きだった菓子をこっそりと忍ばせていたのだ。
震える指先でその薬に触れた瞬間、玲玲の胸に彼の体温が蘇る。どんなに「金目当てだ」と罵ろうと、この細やかな気遣いだけは、彼が彼女を慈しんでいた真実を雄弁に物語っていた。
「……嘘つき。どこまで、お人好しなのですか……」
玲玲は、彼の隠しきれなかった優しさを抱きしめるように、静かに、けれど止めどなく涙を流した。
脳裏には、旅の間、穏やかに笑っていた薬売りの姿が、頼もしい兄代わりの横顔が、そして命懸けで自分を盾となって守り抜いてくれた武芸者としての背中が、溢れ出しては消えていく。
しかし、最後に鮮明に浮かぶのは、胸元まで毒に侵された、あの痛々しい姿だった。
彼女は麗弦を引き寄せ、夜の帳に音色を放つ。
それは、闇に消えた愛しき人へ届くことを願うような、そして彼を蝕む苦痛を和らげたいと願うような、救済と再会の祈りを込めた調べであった。
◇
久々の一人静かな夜。浩然は、湿った草むらに身を投げ出し、ただ高く遠い星空を見上げていた。
星々に向かって無意識に手を伸ばすが、その右腕には、もはや隠しようのない禍々しい黒い筋が脈打っている。
(私の身体は、あとどれくらい保つのだろうか……)
経絡を焼き、心臓を侵食していく毒の熱が、確実に死の足音を伝えてくる。
かつては南斗派の次期宗主と目され、正道の光の中にいた。
あの日、見知らぬ少女の身代わりとなってこの毒を受けたとき、門派を去ることに迷いはなかった。だが、光を捨てて独り歩んできた道が、これほどまでに玲玲への未練を募らせることになるとは思いもしなかった。
目を閉じれば、今も鮮やかに彼女が浮かぶ。
えくぼの浮かぶふんわりとした笑顔、自分のお人好しぶりに呆れる顔、怒った顔、そして、不意に視線が合って頬を赤く染めた顔。
それらを思い出した途端、理性で押さえつけていたはずの激しい執着心が、濁流となって胸を突き上げた。
本当はどの男にも彼女を触れさせたくない。たとえそれがあの魏鳳嵐だとしても。死を待つ身でなければ、正道を追われた身でなければ……。自分の残された時間のすべてを使い、彼女の隣で、その温もりを独り占めしていたかった。
(……だが)
最後に脳裏に焼き付いて離れないのは、泥龍門の戦いの後で、珠のような涙を流していた彼女の泣き顔だった。
「……私は、玲玲を悲しませることしかできない」
浩然は自分に言い聞かせるように、低く掠れた声で呟いた。
かつて門派の誇りを体現して身代わりとなった彼が、今は玲玲の未来を守るために、己の愛すらも泥の下に隠して葬り去ろうとしている。
伸ばした手を虚しく下ろし、彼は再び夜空を仰ぐ。
自分は、闇の中で静かに朽ち果てる身でいい。彼女には、北斗の光が注ぐ明るい場所で、何の苦労も知らずに、ただ穏やかな幸福の中にいてほしい。
それが、正道を捨ててまでお人好しを貫いた男が抱ける、最後の願いだった。




