第46話 剣仙の無力、軍師の孤独
鳳嵐の秘薬によって、浩然は辛うじて甲板まで歩けるほどに回復していた。玲玲と二人、大河の行く末を眺めていたその時である。
静寂を切り裂くように紫微教の刺客が襲いかかってきた。
玲玲が凶刃に追い詰められていく。
浩然は咄嗟に内力を練ろうとした。だが、逆流する気が喉を焼き、指先一つ動かすことすら叶わない。
(……これが、私の、終わりか)
数多の剣を退けてきたその手は動かず、ただ無情な衰えと死の冷たさが全身を支配する。彼女を守れないことが、己の死よりも恐ろしい。
視界が滲む中、その窮地を救ったのは、風を切り裂き颯爽と現れた鳳嵐であった。
鮮やかに刺客を退け、玲玲をその腕に抱き寄せる鳳嵐。その光景は、ただ地に伏して見上げることしかできない浩然にとって、残酷なほどに眩しく、正視しがたいものであった。
(……私は、一体何のために生き長らえているのだ)
拳を握りしめようとするが、力が入らず指が虚しく甲板を掻く。
(助け出したあの腕が、もしも私のものだったなら。彼女を抱き寄せ、その震えを止める権利があるのは、彼女を守り抜く力を持つ者だけだというのに)
浩然が抱いたのは、鳳嵐への安っぽい嫉妬ではなかった。己の無力さ、命の灯火が消えかけている無様な自分自身への、狂おしいほどの憎悪と絶望だ。
鳳嵐が最後の一人を退け、鋭い残心とともに剣を鞘に収める。
「鳳嵐様……ありがとうございます。貴方の剣がなければ、私は……」
玲玲は自分を救ってくれた鳳嵐へ深く頭を下げた。その瞳には、今また窮地を救ってくれた兄のような存在に対する、揺るぎない尊敬が宿っていた。
鳳嵐は無言で頷き、彼女の無事を確認すると、視線を冷ややかに浩然へと移した。
「……礼なら、あそこの『お節介焼き』に言うがいい。動けぬ体で、最後まで貴殿を逃がそうと足掻いていたのは奴だ」
ぶっきらぼうな、だが浩然の執念を認めたその言葉に、玲玲の胸が熱くなる。彼女は鳳嵐に促されるように、地に伏したままの浩然のもとへ駆け寄った。
その足取りに迷いはない。鳳嵐という強大な盾に守られたからこそ、彼女は安心して最愛の人のもとへ向かえるのだ。
「浩然様……!」
玲玲は傍らに膝をつくと、震える手で彼の大きな手を包み込んだ。
「よかった……。鳳嵐様が来てくださって、本当によかった……」
その言葉には、浩然が「守れなかった自分」を責めぬようにという、彼女なりの祈りが込められていた。
浩然は、玲玲の掌の温もりを感じながら、背後で毅然と立つ鳳嵐の気配を意識していた。自分にない輝きを持つ彼への、切なくなるほどの劣等感。しかし、玲玲は鳳嵐を尊敬しながらも、今、自分の手を握りしめている。
浩然は己の無力さを噛み締めながらも、二人への深い感謝とともに、静かに目を閉じた。
◇
鳳嵐は独り、月明かりの下で愛剣を見つめていた。
魏家の名に恥じぬよう、誰よりも研鑽を積み、誰よりも高潔な武芸者であろうとしてきた。
しかし、玲玲と浩然が結ぶ、理屈を超えた強い絆を目の当たりにし、彼の胸には言いようのない虚脱感が広がっていた。
その背後に、パチンと扇子を閉じる音が響く。
「……やれやれ。鳳嵐、お前はどこまで自分を追い込めば気が済むんだい? 誰が見たって、お前は非の打ち所のない男だよ。この私が保証してやる」
星宇は鳳嵐の隣に並び、夜風に吹かれながら、軽妙だか、どこか温かい調子で語りかけた。
「だけどね、あいつ……浩然って男は、端から点数だの格付けだのといった『計算』の外側で生きてるんだ。お前が『次期宗主の右腕としてどうあるべきか』なんて自分を律している間に、あいつはただ……玲玲が笑っているか、その一点に全霊を捧げている」
星宇は夜空の月を見上げ、苦笑混じりに言葉を継ぐ。
「己の矜持も、積み上げた名声も、浩然にとっては玲玲を守るための布石に過ぎないんだろうね。……守るべき立場も、打算もありゃしない。理屈を重んじる私たちからすれば、最高に業腹で、一番やりづらい相手だよ」
そこで星宇はふっと、いたずらっぽい笑みを浮かべて鳳嵐の肩を叩いた。
「……ま、あの方のその『無私』の情には、私だって少々、嫉妬してしまうけどね。鳳嵐、お前が自分を責めることはない。お前はお前らしく、その真っ直ぐすぎる正道を行けばいいんだよ」
星宇の気取らない、けれど芯の通った言葉は、鳳嵐の強張っていた肩の力を、静かに解きほぐしていくようであった。




