第45話 夜に融ける祈り
泥龍門での死闘を終え、静まり返った夜。
無理に剣を振るった反動か、浩然は高熱に浮かされ、昏々と眠り続けていた。玲玲は「いつも守られてばかりの自分」を振り切るように、幾度も冷たい水で布を絞っては、彼の火照った額を丁寧に拭っていく。
(……浩然様が、本当に南斗の『暁陽剣仙』なのだとしたら。北斗の総本山である天枢城には、決して入ることはできないはず……)
拭っても拭っても、彼の熱は容易には引かない。それがまるで、近づく別れの刻限を告げているようで、玲玲の胸は締めつけられた。
天枢城へ辿り着けば、旅は終わる。それは、彼が自分の隣から消えてしまうことを意味していた。
「……嫌です。行かないで……」
誰に届くともない呟きが、暗い船室にこぼれ落ちる。冷たい水に浸した指先とは裏腹に、玲玲の瞳には熱い涙が溢れ、静かにその頬を伝っていった。
浩然が薄く目を開けると、視界の端で珠のような涙を零す玲玲の顔があった。彼女は浩然の無骨な手を両手で包み込み、縋るように己の頬へと寄せていた。
「……浩然様、お願い、どこへも行かないで。貴方がいない世界なんて、私……もう、一歩も歩けません……」
震える声とともに、熱い涙が彼の掌にこぼれ落ちる。
いつもならば「案ずるな」と笑って見せるはずの浩然だったが、今はこの涙の温もりに胸が引き裂かれるような想いだった。
(……そんな顔で、そんな声で私を呼ぶな。私を『兄貴分』以上の存在にしてしまえば……私はもう、地獄へ引き返すことすらできなくなる)
その叫びが、浩然の唇から漏れることはなかった。代わりに彼は、己を蝕む毒の激痛さえ忘れるほどの力で、彼女の柔らかな手をぎゅっと握り返した。
それは、逃れられぬ運命への降伏であり、彼が初めて玲玲に見せた「執着」の証であった。
「……すまない」
絞り出すような、掠れた声だった。
玲玲は、その一言に込められたあまりに深い哀しみに息を呑んだ。
(……どうして、謝るのですか?)
宿敵であるはずの北斗派の令嬢を愛してしまったことへの悔恨か。それとも、これほど慕わせながら、彼女を一人残して去らねばならぬことへの詫びなのか。
玲玲には、その言葉の真意を測りかねた。ただ、握り返された手の熱さだけが、彼の言葉にできない苦しみを物語っているようで、彼女はさらに強くその手を握りしめることしかできなかった。
深まる夜の静寂の中で、玲玲はただひたすらに祈るような心地で看病を続けていた。
すると突然、浩然が何かに怯えるように激しくうなされ、折れんばかりの力で彼女の手を握りしめた。
普段の彼は、どれほど窮地に陥ろうとも穏やかに笑い、玲玲との間に決して越えさせぬ一線を引いている。だが今、熱に浮かされ理性を失った彼の唇から漏れたのは、あまりにも無防備な、剥き出しの本音だった。
「……行かないでくれ、玲玲。……私を、独りにしないでくれ……」
常に「大丈夫だ」と自分を律し、年長者として振る舞ってきた男が見せた、迷子のような、あまりにも寂しげな表情。それは、遠い過去に置き去りにされた子供が、闇の中で必死に誰かの温もりを求めているかのようであった。
(ああ、この人は……ずっと、たった独りで戦ってきたのね)
強く、無敵で、何でも知っているはずの「浩然」という男の内側に眠る、深く暗い孤独。それに触れた瞬間、玲玲の胸を潰さんばかりの愛おしさが駆け抜けた。
「ここにいます。ずっと、貴方のそばにいますから……」
涙を拭い、玲玲は彼の手を自身の胸へと引き寄せた。
私が、この人を守らなければならない。――その確かな使命感が、震えていた彼女の心を強く、静かに固めていった。
◇
浩然を蝕む毒の猛りは容易には治まらず、彼は幾日も起き上がれぬほどに衰弱していた。
静まり返った部屋。一人で苦痛に耐えていた浩然のもとへ、音もなく現れたのは鳳嵐であった。
彼は玲玲が席を外していることを確認すると、不機嫌そうに鼻を鳴らし、浩然の枕元へ小さな薬瓶を無造作に放り出した。
「……これは、魏家に伝わる内傷の秘薬だ」
驚きに目を見開く浩然を冷ややかに見下ろし、鳳嵐は腕を組んでそっぽを向く。
「勘違いするな。貴殿を助けたいわけではない。ただ、玲玲殿があまりに悲痛な面持ちで貴殿を案じているのが、見ていられぬだけだ。彼女の笑顔を曇らせぬため……これはそのための貸しだ。さっさと飲み、その無様な姿を晒すのをやめろ」
吐き捨てるような言葉とは裏腹に、その薬が宗門の禁を冒してまで持ち出された、極めて貴重なものであることは明白だった。
浩然は薬瓶を手に取ると、その重みに込められた鳳嵐の「不器用な誠実さ」を感じ取り、思わず自嘲気味に口角を上げた。
「……相変わらず、素直ではありませんね。ですが、この薬の価値はよく分かります。ありがとうございます、鳳嵐殿」
浩然がいつもの穏やかな、けれど全てを見透かしたような笑みを向けると、鳳嵐は図星を突かれたかのように眉間に皺を寄せた。
「……ふんっ」
鳳嵐はそれ以上言葉を交わすのを拒むように、短く鼻を鳴らして踵を返した。
二人の間に流れる空気は、玲玲を巡る静かな火花を散らしつつも、彼女を守るという一点において、確かに同じ熱を帯びていた。




